2018年01月01日

2017年12月31日 主日礼拝説教「神の子と呼ばれる」須賀 工牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章12節〜17節

 今朝、私達は、2017年の最後の礼拝を捧げています。一年間の歩みを省みながら、感謝と悔い改めの心をもって、この礼拝を捧げたいと思います。そして、改めて、「キリスト者の生き方」について、今朝の御言葉から聴きつつ、新しい年を迎えたいと思います。
 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙8章12節から17節の御言葉であります。今朝の御言葉の12節から13節の御言葉をお読みします。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」
 「キリスト者」とは、「キリストによって救われた人」であり、「洗礼を通して、キリストに結ばれた人」のことです。しかし、キリスト者は、神様によって救われたからと言って、「何をしても良い」というわけではありません。キリスト者には、キリスト者としての「責任」や「義務」あるいは、救いに対して「応答した生き方」があります。
 それでは、「キリスト者」の「義務」とは、何でしょうか。それは、何よりもまず、「肉に従った生き方」ではないということです。言い方を変えるならば、「人間の思い」や「人間の働き」を中心とした生き方。言うならば、「人間を中心とした生き方」。そのような生き方ではありません。キリスト者の生活は、人間を中心とした生活ではないということであります。
 それでは、「キリスト者の義務」とは、何でしょうか。それが、「霊に従って生きる」という生き方であります。言い方を変えるならば、人間を中心とするのではなく、神様を中心とすること、神様の御心を中心とした生き方とも言えるかもしれません。それが、「霊に従った生き方」であり、キリスト者は、そのように生きる者なのだと、ここから強く言われているのであります。
 それでは、「霊に従った生き方」とは、どのような生き方なのでしょうか。今朝の御言葉の14節から15節をお読みします。「神の霊によって導かれる者は、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」
 「神の霊に従った生き方」とは、どのような生き方でしょうか。それは、「神様の子どもとして生きる生き方」であります。あるいは、「神様の子どもであることを喜ぶ生き方」とも言えるかもしれません。「子どものように純粋な心を持ちなさい」という話ではありません。「幼子のような純真無垢な心を持たなければいけない」という倫理的な話ではありません。
 「幼子」とは、どのような存在でしょうか。親を必要とする存在です。親がなくては生きてはいけない存在です。何か大きな力により頼みながら、その力にゆだねて生きる存在であります。これが「子ども」あるいは「幼子」の姿であります。私達キリスト者は、そのような存在として、父なる神の御手の中で生きても良いのだと、ここから教えられるのであります。
 「神の子として生きる。」「霊に従って生きる。」「神様を中心として生きる。」それは、人間が、何か、神に近づこうと努力することではありません。何も出来ない自分を知り、ただ、赤ちゃんのように、神様を「お父さん」と呼びかけ、信頼し、愛し、求めていく。それで良いのです。優等生の信仰者になる必要は無いのです。幼子のように、もっともっと、神様に頼って生きて良いのです。心を楽にして、神様の手の中で安心して生きて良いのです。それが、「神の子と呼ばれて生きる」、キリスト者の姿なのであります。
 そして、そのような生き方へと、導くのも、やはり聖霊の働きであります。私達が、幼子のようになれるのも、私達の働きによるのでは、もちろんありません。聖霊を通して、神様が、「あなたは愛する子だよ。ゆだねて良いんだよ。もっと、私に寄りすがって良いんだよ。」そう示し続けてくださるからなのであります。
 「アッバ、父よ」と呼びかけられるところに、キリスト者の姿があります。ここにキリスト者の生き方があります。しかし、私達が生きていく中で、この安心が取り去られてしまうこともあるかもしれません。自分の罪の重さを知り、自分の弱さを知り、神様が、「お父さん」というよりも、厳しい裁判官のような存在に見えてしまう、恐ろしい神の存在を感じてしまうということがあるかもしれません。
 しかし、今朝の御言葉は、次のように示しています。今朝の御言葉の16節の御言葉をお読みします。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」
 私達が、「神様の子どもであるということ」は、私達の側には、何も保証はないのです。「この私が、神様の子どもに相応しい」といえるほどの証拠や保証は何もないのです。
 しかし、神様が、私達を神様の子どもとして受け入れて下さった。神様の霊が、私達を導いてくださった。神様が、この私を、このあなたを「神様の子供」だと宣言して下さった。人間の目ではなく、神様が、キリストを通して、この私を神様の子どもとして受け止めてくださった。保証や証拠は、全て、神様の側にあるのです。
 そして、大事なことは、その大きな幸いは、私達の心から確信として湧いてくるものなのであります。「わたしたちの霊と一緒になって」とあります。神様の証しに導かれるようにして、この私の心の奥にある霊もまた、「あなたは大丈夫。神様はあなたの神の子どもとして受け入れて下さっている。」そう教えてくれるのです。
 私達は、神様の子どもとして相応しいところが何もないかもしれません。あるいは、教会員の中で、そのように裁き合うことがあるかもしれない。あるいは、教会の外からそのように言われることもあるかもしれない。
 しかし、あなたが、神の子どもあるかどうかは、人が決めるのではない。神様が、それを保証してくださる。私の心もまた、そう励ましてくれる。その恵みの中で、何度も立ち上がっていける。ここにもまた、キリスト者であることの深い慰めがあるのです。
 キリスト者であることは、今、ここで慰めを受けるだけではありません。将来に思いを向けながら、希望をもって慰められる者であります。それが、よく示されているのが、17節の御言葉であります。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」
 私達が神様の子どもである以上、私達は、神様の相続人であります。私達は、神様に何を頂くのでしょうか。「神の国」であります。私達は、神様の国で、キリストと共に生きるものとされているのです。それが、私達に約束されているのです。これが、私達の希望となります。
 しかし、この大きな希望を持っていても、キリスト者には、様々な苦難があるかもしれません。けれど、私達は、一人で苦しむわけではない。その苦しみ中で、キリストも共に苦しんでいてくださる。キリストも共に歩んでくださる。キリストの愛を身に帯びながら生き、そして、終わりの時、キリストと共に、神の国の栄光を受けるものとされている。 この今を生きるのは、辛いことが多いかもしれない。不安も多いかもしれない。しかし、私達キリスト者の生きる、「その横」には、キリストがおり、共に歩んで下さる。だから大丈夫。私達キリスト者の生きる、「その先」には、キリストと共に、神の栄光を受けて、神の国に生きる自分がいる。最後の最後は、私達は神の子どもとしての本当の喜びに生きるものとされているのであります。
 古い年が過ぎ去ります。私達は、神の子どもとして相応しい歩みをしてこなかったかもしれない。沢山の反省があるかもしれない。しかし、それでも、私達が神様の子どもであることは変わらない。神の国があることも変わらない。その約束だけは、絶対に揺らがない。その深い幸いを心に留めながら、新しい年を迎えたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:08| 日記