2018年02月05日

2018年2月4日 主日礼拝説教「屠られる羊のように」須賀 工牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章36節

 キリスト教は、御利益宗教ではありません。信仰を持っているからと言って、この世でこの世の幸せを手に入れられるとは限りません。信仰を持っているからと言って、苦しいことがなくなるというわけでもありません。信仰を持っているからと言って、沢山の人に愛され、沢山の人に受けいられるとも限りません。信仰を持っていても、あるいは、信仰を持っているがために、幸せを奪われることもあります。苦しいことを経験することもあります。人々から憎まれ、心を痛めつけられることもあります。
 今朝の御言葉には、次のような言葉があります。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ」。これは詩編44編の引用です。
 ここで言われている「わたしたち」とは、誰のことでしょうか。それは、簡単に言えば、「神様を信じる人たち」のことです。つまり、「神様を信じる人たち」は、「死にさらされている」のだと言われているのです。
 では、「死にさらされている人」とは、どういう人のことでしょうか。これは「罰を受けた悪人」のことです。例えば「さらし首」という処刑方法があります。悪人の首を切って、人々の目にさらす処刑です。このように、「死にさらされる」のは、いつでも悪人の死刑囚です。つまり、この世にあって、「神様を信じる人」は、「まるで悪人のように扱われているのだ」ということが、ここで強調されているのです。
 クリスチャンだからといって、世界中の人々に愛されるとは限らないようです。むしろ、この世にあって、悪人のように扱われることがあるのです。それが、クリスチャンの現実なのだと、ここで言われているのであります。しかも、それは一回や二回のことではありません。「一日中」とあります。常に、いつでも、クリスチャンは、そのような目で見られてしまうことがあるのだと言われているのです。
 それでは、どうして、クリスチャンは、悪人のように扱われるのでしょうか。それは、私達が、「あなたのために」生きているからであります。「あなた」とは誰でしょうか。「神様」のことであります。いつでも、神様と向き合って生きる。このところに、信仰者の姿があります。もし、この世のために生きているならば、この世から誉められるかもしれません。しかし、私達は、神様と向き合い、神様のために生きる信仰者です。だから、この世は、嫉妬し、憎むことがあるのです。私達が、この世から憎まれ、そして、悪人のように扱われるのは、私達の心が、いつでも、神様だけに向かっているからなのであります。
 逆に言えば、この世で誉められる必要はないのだということです。この世で立派な成績を残す必要はないのです。勿論、あえて憎まれるようなことをする必要もありません。ただ、仮に、この世で憎まれていたとしても、あるいは、この世で、自分を受け入れる人がいなくても、神様と向き合って生きている。ただ、そこに、私達の信仰者としての命や姿があるのです。
 私達は、この世にあって、まるで「悪人」のように見られています。しかし、この悪人は、決して力のある悪人ではありません。今朝の御言葉には、次のように記されています。「屠られる羊のように見られている」。
 「屠られる羊」とは、もうすぐ殺される羊のことです。精肉処理場に連れて行かれる無力な羊のことです。この羊は、無力です。何もできないまま、殺されていきます。私達も同じです。無力な者です。この世からはそう見られている。この世には勝てない存在。そのように、私達は、この世から見られている。
 確かにそうであるかもしれません。この世の巨大な力を前にしては、私達は、この世では小さな存在です。この世では無力なものであるかもしれません。ただ、つぶされて、滅ぼされるだけの存在なのかもしれません。
 しかし、クリスチャンは、そこで終わるのでしょうか。無力なままで終わっていくのでしょうか。この世に敗北したまま、滅んでいくだけなのでしょうか。
 それは違います。私達に先立って「屠られた羊」となった方が、私達の側にはいてくださいます。それが、主イエス・キリストであります。主イエス・キリストこそ、私達に先立って、この世で憎まれた。主イエス・キリストこそ、先だって、死に晒され、屠られる羊になられた。私達の歩む人生の先には、主イエス・キリストがいてくださるのです。
 しかし、その主イエス・キリストは、罪の力を越え、死を超越し、復活されました。そして、今や、神様の右に座っておられます。私達は、その主イエス・キリストの御支配の中に入れられています。 
 罪も死も、あるいは、この世のいかなる憎しみも、私達を支配することはできません。私達は今や、全て苦難の克服者、勝利者である、主イエス・キリストの支配の中で、今を得ています。罪も死も、憎しみも、敵意も、全てを越えた御方の御手の中に入れられているのです。
 確かに、この世では敗北しているかもしれない。無力かもしれない。しかし、この世のものは、いつかは滅び去るものでしかありません。私達は、決して滅びることのない神様の御手の中で、今を得ているのであります。だからこそ、私達は、この世にあって自分が、たとえ無力であったとしても立ち続けることができるのです。
 私達は、既に、主イエス・キリストの御支配の中にいる。だから、堂々と、自由に、神様だけを見つめて、生きて良いのです。人が認めなくても、世が、あなたを恨んでも、それでも神様は、キリストによって、あなたを神の子どもとして認めて下さる。受け入れてくださる。
 この世の力が強い、この今の時代であるかこそ、今、私達が支配している本当の力がどこにあるのか。そこに目を向け続けることが大切です。そして、その時、私達は、罪、死、憎しみ、敵意、私達を苦しめるすべてのものよりも、更に大きな愛の力をもって、私達を支配しておられるキリストの御臨在を味わいながら、今を歩み続けることができるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:43| 日記