2018年02月27日

2018年2月25日 主日礼拝説教「愛を確信する」須賀 工牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章38節〜39節

 今朝、私達は、受難節第二主日礼拝を迎えています。「受難節」とは何でしょうか。それは、「主イエス・キリストの十字架の苦難と死を偲ぶ時」であります。
 主イエス・キリストは、何のために十字架の死を受けられたのでしょうか。それは、「私達の救い」のためであります。つまり、神様は、この私達を救うために、御子を惜しみなく死に渡されたことになります。御子を惜しみなく死に渡されるほどに、断固として、神様は、私達をかけがえのないものとしてくださった。ここに、キリストを通して表される、「神様の愛」があります。
 聖書には、「罪」という言葉があります。聖書における「罪」とは、「的を外す」という意味があります。つまり、私達の生活の中心である神様から「外れてしまう」こと。これが聖書の示す「罪」です。少し言い方を変えて申し上げるなら、「罪」とは、神様を中心とすることから外れ、自分を中心としてしまうこと。これが、「罪」であります。
 自らを共に省みてみましょう。私達は、それぞれの生活の中で、「自分が正しい」と言えるでしょうか。神様を生活の中心に据えられて、そこから外れることなく、主の目に完璧な生活ができていると言えるでしょうか。もし、「自分には罪がない」というならば、それは、神様を必要としないことであり、実は、そこにも罪の陰があると言わざるをえません。
 そう考えるならば、人間は誰もが、例外なく、勿論、牧師自身も含めて、「自分が正しい」とは、言えないはずであります。少なくても、神様の御前では、自分を正当化することなど不可能でありましょう。
 本来、「罪人」は、どうなるのでしょうか。裁きを受けます。しかし、神様は、裁くためではなく、救うために。見捨てるためではなく、和解するために。滅ぼすためではなく、生かすために。断罪するためではなく、和解するために。御子イエス・キリストに罪を背負わせた。そして、私達の代わりに償わせたのであります。御子を惜しみなく犠牲とされたのであります。本来、痛みを負うことのない御方が、御子を惜しみなく死に渡されることによって痛みを負われた。そこまでして、私達を断固として大切にしてくださる。ここに神様の愛があるのです。
 そして、その「愛」は、決して揺らぐことはありません。正に、断固たる愛であります。私達の罪が、どれだけ大きいものであったとしても、神様の断固たる愛は変わらない。神様が永遠であるならば、この断固たる愛もまた永遠なるものなのでありましょう。
 この断固たる愛を味わいながら生き、この断固たる愛の中で、永遠なる神様と永遠に結ばれて生きることが許されている。そのところにこそ、私達の幸いがあるのです。
 人間の思い描く幸福は、いつかは過ぎ去るものです。しかし、神様の愛は過ぎ去らない。最後まで残り続ける。それぐらい、強力であり、確かなものであります。そして、それを確かにしながら生きていける。あるいは、それを確信しながら、主のもとへと召されていける。そのところにこそ、私達キリスト者の生涯がある。そのように言えるかもしれません。私達は、生きるにしても、死ぬにしても、そのような神様の断固たる、確かな愛の中にいるのであります。
 しかし、この世において、私達の罪が、完全に取り去られているわけではありません。この世にある限り、私達と罪の問題は、切り離せない問題でもあります。即ち、この世は、神様と私達を切り離そうとする。そういう力に満ち溢れているのだと言えるでしょう。あるいは、神様の愛が一層深まるところでこそ、私達の罪が、様々な形で、力を増して襲ってくる。そういうこともあるだろうと思うのです。
 今朝の御言葉を改めてお読みします。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も」ここに記されていることは何でしょうか。それは、「神様の愛から私達を引き離そうとする力」であります。つまり、ここで改めて、私達は、私達の罪の問題と向き合うことになるのであります。
 「死」とは何でしょうか。「死」とは、「命が絶えること」です。あるいは、「命が奪われること」でもあります。命が奪われ、命が絶えることは、とても耐えられないことであり、辛いことでもあります。出来ることならば、「命を奪われたくない」、「命が絶えて欲しくない」。そう感じることもあるかもしれません。これが人間の素直な姿であると思います。
 それでは、なぜ、私達は、「命を奪われたくない」と感じるのでしょうか。それは、私の命が「自分の命」になっているからであります。神様によって与えられた命が、自分のものになっている。神様を中心とした命ではなく、自分を中心とした自分の所有物のような命になっている。だから、絶えていくことが恐ろしく、奪われることに不安を抱えるのであります。
 「生きることも死ぬことも、全てが主のものである」と教えていたはずの、私の父は、最後まで「死にたくない」と叫んで死んでいきました。どれだけ、信仰深い人生を送っていても、死の影の中では、自分の命が絶えることを恐れ、そして苦しんだのであります。
 「死」を深く意識することを通して、実は、人間がいかに自分の命を自分のものにしてきたか。それがはっきりと良く分かるのかもしれません。そのような意味で、「死も命も」、私達を神の愛から引き離そうとする恐ろしい力となることを、いつでも、心に留めて置くべきなのかもしれません。
 「天使も支配者も」、私達の罪を明らかにするものです。これと関連して、「高い所にあるものも低い所にあるものも」、私達の罪を明らかにします。実は、ここにある言葉には、共通していることがあります。それは、どれも、「人間の運命を導くもの」と考えられていました。
 例えば、「天使」は、「人間の運命を導く役割がある」と考えられていました。「支配者」とは、この地上の「支配者」のことではありません。「目には見えない力で人間の運命を先導する力」のことを表しています。「高い所や低い所」という言葉は、元々、天文学的用語であり、同時に、占星術の言葉でもあると言われています。これもまた、「人間の運命を導く力」に関わる事柄でありましょう。
 私達は、時々、この私を「幸福へと導く何か」に、より頼むことがないでしょうか。神様の御心よりも、「幸福に満ちた運命」へと導いてくれる。そのような、目に見えない力を必要としてしまうこと、そういう力を頼りにしてしまうことがないでしょうか。
 私達が、より頼むものは、目に見えないものだけと限りません。現在の苦しみを取り除き、幸せにしてくれるもの、将来の幸せを保証してくれるもの、幸福をもたらす力ある者、自分を幸福にするだろう「神以外の被造物」。自分を幸せにしてくれるものであるならば、神以外のいかなるものであってもより頼んでしまうことがあります。それが、目に見えなくても、目に見えていても同じことです。
 それは言い換えるならば、神の御心、神様の御意志を中心とするのではなく、自分を中心とした人生、自分が幸せであれば良い、という自分中心の生活を求めていることではないでしょうか。また、その意味で、先ほどの「死と命」の問題も、ここに関わっているのだと言えるかもしれません。
 実は、私達の「罪」の問題とは、正に、このところにあるのです。神の的から外れていく人生とは、こういう人生なのであります。自分の生涯を自分だけのものとして「死と命」を捉え、自分の思い描く幸福だけを求めては、神ではないものに頼ろうとする。ここに私達の罪の現実が具体化されていくのであります。
 しかし、パウロは記します。人の罪が、いかなる深い罪であったとしても、「神様の愛から私達を引き離すものはない」のだと。人間が、自分を中心とする人生を歩んでいたとしても、神は、そのような人間を見捨て、裁くのでなく、御自身の御子を犠牲としてまでも、断固として愛し抜かれるのであります。人間の弱さ、罪深さを知りながらも、御子イエス・キリストを惜しみなく、犠牲の死に渡されるほどに、私達を大事に思い抜いて下さる。ここにキリストを通して示される、神の愛があるのだと宣言するのであります。
 そして、この愛は、決して奪われないのです。そうであるならば、生きることも、死ぬことも、あらゆる、私達の生涯もまた、神様のとらえがたい大きな愛の中にあるのだと言えるでしょう。どんな人間であったとしても、この愛から離れることはない、いや離れられないのだということなのであります。
 だから、いつでも、私達は立ち返れるのです。いつでも、神の愛を教えられ、神の愛の中にあることを味わいながら歩むことができるのです。神の愛の中にあることが、他のどんなものよりも幸せであるということ。ましてや「死」すらも、その幸いを取り除けないのだということ。そのことを深く味わいながら生きることができるのであります。
 「私は確信しています」とあります。「確信する」という翻訳は正しくありません。「確信させられる」という翻訳が正しい翻訳です。私達が神の愛を信じるのではなく、私達が、神の愛を信じるように、神様が、いつでも、その愛を聖霊によって与え続けて下さり、私達を確信へと至らせるのであります。
 この大きな幸いを深く心に留めながら、キリストの十字架の意味を改めて思いお越しつつ、受難節の時を共に過ごしていきたいと願う者であります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 06:52| 日記