2018年03月06日

2018年3月4日 主日礼拝説教「真実を語る」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙9章1節〜2節
 今朝、私達は、受難節第三主日礼拝を迎えています。「受難節」とは、何でしょうか。それは、「イエス・キリストの苦難と死を偲ぶ時」であります。それでは、主イエス・キリストは、何のために苦難と死を受けられたのでしょうか。それは、「私達の罪を背負うため」であります。
 「罪」とは何でしょうか。それは、私達が考えるような「犯罪」のことではありません。「罪」とは、「的を外すこと」であります。的の中心にいるのは神様です。生活の中心にいる神様から外れてしまうこと。これが「罪」です。
 それでは、通常「罪人」の結末は何でしょうか。それは、「裁かれ、罰せられること」であります。神様に対する罪です。だから、神様によって裁かれ、罰せられるとも言えるかもしれません。
 しかし、神様は、裁くためではなく、救うために御子イエス・キリストを与えてくださいました。そして、この御子イエス・キリストに、人間の罪を背負わせ、身代わりとなって処罰された。そのことによって人間の救いを宣言してくださったのであります。
 つまり、神様は、私達人間を救うために、御子イエス・キリストを惜しみなく死に渡されたことになります。それほどまでに、人間を断固として愛し、救うことを御心に留めてくださったのであります。ここにこそ神様の救いの御心があるのです。そして、この主イエス・キリストの救いを信じ、このキリストと結ばれることによって、全ての人が救われる。そのような道を切り開いてくださったのであります。
 しかし、使徒パウロの時代、この救いを断固として受け入れられない。そのような人たちがいました。言い方を変えるならば、主イエス・キリストを信じ、キリストと結ばれることを強く拒絶した人たち。そういう人たちがいた。いや、拒絶するだけではありません。キリストを憎み、そして、キリストを信じる人々をも迫害していた人たちがいたのであります。それは誰でしょうか。
 それが、「イスラエルの人たち」であります。あるいは、パウロの同胞・パウロの家族や仲間たちであります。そもそも、「イスラエル人」とは、どのような人たちなのでしょうか。彼らは、自分たちが「神に選ばれた民」であると信じていました。神様によって救われるのは、自分たちだけだ。そう信じていたのです。
 このイスラエルの人たちの考え方は、決して全てが間違いではありません。神様の救いの歴史−旧約聖書の時代−を省みてみるならば、イスラエルの人々は、確かに「神様の子ども」であり、「神様によって選ばれた人々」であります。
 しかし、それ故に、彼らは、神様の救いは、自分たちだけのものだと考えた。全世界の人が救われるはずはない。救われるのは、自分たちだけだ。そう信じたのです。
 だからこそ、キリストを赦せなかったのです。キリスト者を受け入れることはできなかったのです。全世界に与えられた神様の愛を受け止めることができなかったのであります。
 そして、そのことの故に、言い方を変えるならば、神様の民であるはずの彼らが、ただ一つの神様の愛と救いから漏れてしまっている。そういうことが起きてしまったのであります。
 そのような厳しい、あるいは悲しい現実の中に立たされて、使徒パウロは、今朝の御言葉を記しているのであります。彼にとって、それは、切実なる家族の問題、仲間の問題でありましょう。パウロもまた、イスラエル人だったからであります。
 しかし、これは決して人ごとではありません。私達の周りにも、いや、私達の目の前にも、救われていない同胞。家族、仲間がいます。
 勿論、イスラエル人とは状況は違うかもしれません。しかし、自分だけが救われ、目の前の親しい人が救われない。そういう現実だけで申し上げるならば、私達もまた、パウロと同じ課題を背負っているのかもしれません。
 そして、この課題は、神様の救いは確かなのか。神様の愛は正しいのか。そういう深い問いかけにも関わっているかもしれません。神様の愛の深さ・確かさを知っている。しかし、その神様の愛が届いていない。救いの光が届いていない。そうであるならば、神様の愛は正しいのか。神様の救いは確かなのか。神様の救いは失敗したのではないか。神様の愛は力不足なのではないか。そういう問いになるのです。そのようにも受け取ることができるだろうと思うのです。
 このような、少し、難しい問題を意識しながら、今朝の御言葉9章1節から2節の御言葉を改めてお読みします。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」。
 使徒パウロは、ここで彼の心の中にある「真実」を語ります。彼の真実とは何でしょうか。それは、彼の内に、「深い悲しみと絶え間ない痛み」があると言うことです。パウロは、自分が救われたことを喜んでいただけではないのです。深い喜びと共に、同時に「深い悲しみと痛み」もあったのです。この悲しみと痛みは、決して言葉では言い表せないものでありました。神様の力を借りなければ、人の言葉では言い切れない。それほどの悲しみと痛みがあった。これが、パウロの真実の姿なのだと言うのです。
 それでは、彼は何を悲しんでいるのでしょうか。それは、「イスラエル人が救われていない」ということであります。神様の民が救われていないということです。いや、もっとはっきりと申し上げるならば、自分の家族、仲間が救われていないということ。それこそが、彼の悲しみの原因でありました。
 使徒パウロは、優れた伝道者であったと思います。実際に、使徒言行録を読むと分かります。パウロの伝道を通して、沢山の教会がたち、キリスト教の救いが全世界のものとなりました。
 しかし、目の前の人が救われないのです。自分の家族、仲間が救われないのです。使徒言行録を読むと分かります。使徒パウロは、何度も、ユダヤ人の会堂で、キリストの救いを宣教しました。何度も、主イエス・キリストの救いを語り尽くしてきた。
 しかし、語っても語っても、あるいは祈っても祈っても、イスラエルの人たちが救われない。キリストと結ばれない。だから、悲しい。この現実が辛い。言葉では言い尽くせないほど、心が痛むのであります。
 この悲しみは、どこから来るのでしょうか。自分の努力が実らないから悲しいのでしょうか。努力が報われないからでしょうか。それは違います。もし、使徒パウロが、自分の努力に頼っていたのであれば、悲しいという感情よりも、腹立たしい感情、あるいは、諦める感情の方が先行するだろうと思います。「一生懸命に語っているのに、頑張って伝道しているのに、誰からも理解されない。何も報われない。こんな不信仰な人たちはもう見捨ててやる。」そういう感情が先に来るはずでありましょう。そして、それ故に、パウロの伝道は、結局は、自己主張の押し付けだったとか、あるいは、自分中心の伝道であったと評価されていたかもしれません。
 では、パウロの悲しみは、どこから来るのでしょうか。それは、神様の愛の深さを知っているところから来るのであります。神様の愛を深く知っている。神様が惜しみなく、御子を死に渡された。ここに測り知ることの出来ないほどの愛がある。この愛の深さ、広さ、確かさを知っている。その憐れみの偉大なることを知っている。だからこそ、この愛が届かないことを悲しむのであります。この悲しみは、神の愛を知るがゆえの悲しみなのであります。本当の喜びや希望を知る者の悲しみなのであります。
 考えて見れば、パウロもまた、イスラエル人であります。神様によって選ばれた民です。そして、彼もかつて、主イエス・キリストを憎み、教会を迫害した一人であります。しかし、こんな罪深い人間もまた、キリストと出会い、キリストに招かれ、罪が赦されて生かされている。キリストと結ばれて、神の国で永遠に生きる希望を頂いている。こんな私でさえも、救われるほどに、神様の愛は広く、深く、そして、確かなのであります。パウロは、誰よりも、神様の愛の確かさ、憐れみの深さを良く知っているのです。
 だからこそ、なぜ、自分の同胞が救われないのか。自分の家族が愛を知ることができないのか。愛の深さを知るからこそ、目の前の人が救われないことを悲しく感じる。痛みを感じずにはいられなくなるのであります。自分の罪を知り、そして、その罪を越えていくほどの神様の愛を知るものこそ、目の前の人の厳しい現実に対して真実に涙を流せるのかもしれません。
 逆に言うならば、自分の罪を棚に上げ、神様の愛の確かさを深く知ろうとしない人は、自分の家族や同胞、目の前にいる仲間が救われることにも目を閉じてしまっているのかもしれません。
 この1節と2節は、その意味で、本当に私達の信仰生活が問われていく言葉であると言えるだろうと思うのです。私自身もまた、この御言葉で心が砕かれたような思いがします。自分が救われていることだけで満足し、目の前の人の救いを願い、ただひたすらに御言葉を語り、祈りを捧げ、そして、涙を流しながら、その人の救いを考えたことがあるだろうか。神様の愛と真剣に向き合い、その愛がなぜ、届かないのか。そう神に嘆きながら、涙を流して、目の前の人の救いを祈り願っているのだろうか。
 私は、まだまだ、神様の愛の深さを理解していなかったようです。あるいは、自分の罪をまだまだ、真剣に悔い改めていなかったようです。どこかで、自分が救われていることにあぐらをかいていたのかもしれません。自分の罪と心から向き合い、それでも、自分が愛されていることと真剣に向き合う。その時こそ、この愛の確かさを知ります。だからこそ、この確かなる愛が、なぜ、目の前の人に届かないか。こんな自分も救われる。それ程の確かな愛が、なぜ届かないのか。届いて欲しい。涙を流して、主の憐れみを求めて祈る者でありたいと思うのです。
 さて、パウロは、この大きな課題に対して、どのような応えを出したのでしょうか。パウロは、決して、神様の愛を疑うところから、この課題を進めてきたわけではありません。神様の愛の確かさを知っているからこそ、悲しみ、嘆くのであります。その彼が行き着いた先には何があるのか。それが、9章5節の御言葉です。「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえらえる神、アーメン。」
 目の前の家族が救われない。目の前の仲間が救われない。神の愛の確かさを知り、それを信じているからこそ、嘆かざるを得ない。しかし、神様の愛の確かさを知っているからこそ、嘆きは永遠ではない。悲しみは永遠ではない。そういうことも知っている。私達の悲しみの先には、讃美の言葉が待っていることを知っている。どれだけ悲しみに悲しみを重ねたとしても、決して揺らがないものがあることを知っている。それが、キリストの救いの支配。キリストの救いは変わらない。目の前の人も、無力な自分も、キリストの支配の中にあることは変わらない。そこに立ち帰ることができる。キリストの確かな救いを、更に深めながら新たに立ち上げられていくものとされる。目の前の家族が救われない。だから、キリストの救いが無力なのだとはならない。それでも、キリストの救いは、この世界を包んでいる。そして、その救いが、いつかは、完成に至ることを信じる。そう信じる者へと成長するのです。
 そして、こんな私達がなすべきことは何でしょうか。ローマの信徒への手紙10章1節には次のような言葉があります。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」私達がすべきこと。キリストの救いが、揺らぐことなく、死を越えて、いや死の国に至るまで、支配していることを思い起こし、祈りに祈りを重ねていくこと。ここに尽きるのです。この地上で救いを知らずに、死んで行く人もいるでしょう。しかし、十字架で死んだ御方は、死の国まで降られます。死の国もまた、キリストの救いに満ちている。キリストの救いが支配しないところはない。最後には、必ず、主の救いが完成する時が来る。主の御国が来たることを信じ、そう信じて、そこに立ち帰り、そこから立ち上がり、主を賛美し、祈りを新たにしていく。そういう者でありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:37| 日記