2018年05月13日

2018年5月13日 主日礼拝説教「信仰を告白する」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙10章5節〜13節
 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙10章5節〜13節の御言葉であります。5節の御言葉をお読みします。「モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。」
 「律法による義」とは、何でしょうか。「律法」とは、「神様の掟」のことです。「義」とは、「神様の御心に適うこと」を意味しています。あるいは、もう少し簡単に申し上げるならば、「救いを得ること」を意味しています。つまり、「神様の掟を守ることによって、救いを得ること」。これが、「律法による義」が意味していることであります。
 もう少し、砕いて申し上げるならば、「律法による義」とは、「自分の力で救いを得ようとすること」でもあります。自分の力に頼りながら、自分の力で神様の掟を守り、何とか救いを得ようとすることです。これが、「律法による義」が意味していることであります。
 しかし、寝ても覚めても、掟を守る人生など、果たして人間に可能なのでしょうか。どのような時にも、掟を守り抜いて生きることなど、果たして人間に可能なのでしょうか。人間は、決して、完璧な存在でありません。弱さもあります。限界もあります。そのような人間が、掟を守り抜き、自分の力で救いを勝ち取ることなど、本当に可能なのでしょうか。
 自分の力で救いを得ること。この難しさをよく知っている人たちがいます。それが、ユダヤ人であります。彼らは、神様の掟に生きようとした人たちでありました。その彼らこそ、神様の救いを、自分の力で、手にすること。その困難さを、よく知っていたはずでありましょう。
 彼らにとって、「救い」とは、天にも上る覚悟がなければ、決して得られないものでありました。彼らにとって、「救い」とは、底なし沼に身を投じるような覚悟がなければ、決して、勝ち取ることのできないものでありました。彼らこそ、神様の救いを、自分の手で勝ち取ることの困難さを、よく理解していたはずでありましょう。
 しかし、そのような彼らに対して、モーセという人は、次のように語ったそうです。「神様の救いは、決して、手の届かないような天や海の果てにあるのではないよ。むしろ、救いの御言葉は、あなたの近くにあるのだよ。」そのように、モーセは、かつて、ユダヤ人達に教えていたと言われています。
 使徒パウロは、このモーセの言葉の内にこそ、主イエス・キリストの存在があるのだと信じたのであります。
 「神様の救い」は、人間の手では、到底、届かないような天の上にあるものではない。その天から、主イエス・キリストが来て下さったではないか。もう既に、主イエス・キリストが、救いを携えて、ここに来て下さったのではないか。そのキリストは、今も、私達の近くにいてくださるのではないか。そのキリストを引き下ろす必要はないのです。もう、既に、キリストは、あなたの近くにいて、あなたに救いをもたらしているではないか。だから、救いを得ようと、もがき苦しむ必要は無い。もう既に、主イエス・キリストが、ここに生きてくださる。救いを携えて、共に生きてくださっている。このキリストと結ばれていくことこそ、救いを得る道ではないか。そのように、パウロは、ここで語っているのであります。
 「神様の救い」を得ようと、底なしの淵に身を投じるような苦しみを味わう必要はないのです。救いを得られないと、もがき苦しむ必要ないのです。あるいは、自分は本当に救われているのかと、苦しむことはないのであります。死の底に下られた、主イエス・キリストは、復活して、今も、あなたの近くにいるのです。あなたのそばに生き、救いを携えて、共に歩んでくださるのであります。
 もう既に、私達の目の前にに生き、もう既に、私達の内に生きておられる主イエス・キリスト。そのキリストと固く結ばれて生きるところに、信仰がある。そして、その信仰によって、神様の救いは、私の救いに変わるのです。救いは、自力で得ようとするものではありません。もう既に、あなたの内に生き、救いの光で照らしてくださる、キリストの招きに応え、そのキリストと結ばれていくところにこそ信仰があり、その信仰によって、神様の救いが、私の救いとして実現しているのであります。
 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」
 救いを得るためには、口と心で信仰を告白することが大切であります。ただ、心で信じていれば良いという訳ではないのです。口でしっかりと、信仰を告白することが大事です。信仰が感情だけの問題にならないためです。しかし、ただ、口で言えば良い分けでもない。心がキリストに向いているか。それもまた大切であります。だからこそ、口で告白し、心で信じることは、共に大切なのであります。
 しかし、ここにも、大きな問題が生じます。即ち、それではまるで、この私が信仰を告白することが救いの条件なのかと思わずにはいられないからです。そうであるならば、救いは、やはり、人間の力にならないだろうか。そう思うこともあるかもしれません。
 しかし、先ほども申し上げましたが、私達が、信仰を告白するよりも前に、もう既に、私達の前には、主イエス・キリストが、私の傍らに立っておられるのであります。信仰を告白したから、キリストが、私のところに来て下さるのではないのです。既に、キリストが、私達の前にいてくださる。私達を見つめていてくださる。私達を救いの光の中に入れてくださる。その深い恵みと導きと、そして支えによって、初めて、信仰を告白する者へと、私達は変えられていくのではないでしょうか。救いは、私達からではなく、キリストが共にいてくださるところから始まるのです。
 大事なことは、律法を持っているとか、律法を持っていないとか、そういうことではありません。ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、もう既に、一人一人の内に、主がのぞんでいてくださる。救いのまなざしを向けていて下さる。その救いの光の中で、私達は、主を呼び求めるものとなるのです。そして、主は、その声を確かに聞き入れて下さるのであります。信仰は、人から始まるのではないのです。キリストが、まず、私達の近くにのぞんでいて下さる。そのところから始まる。その主の大きなまなざしの中でこそ、私達は、イエスを主と告白し、キリストの復活に希望をおくものへと導かれていくのであります。
 「主を信じる者は、だれも失望することがない」。この訳は間違った訳です。本来は、「失望には終わらない」という意味です。失望はあるのです。信仰を持っていても、苦しいことはあるのです。しかし、その苦しみが永遠には続かない。その恵みを知っているのが、キリスト者です。どうして、キリスト者は、その恵みを知っているのでしょうか。救いは、既に、私達の近くにあることを知っているからであります。キリストが、今も、私達の近くにあることを知っているからであります。だから、私達は、苦しみが苦しみのままで終わることがないことを知っている。ここに信仰者の希望があるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:17| 日記