2018年05月23日

2018年5月20日 主日礼拝説教「言葉は世界の果てに」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙10章14節〜21節

 今朝、私達は、「聖霊降臨日」を記念する礼拝を捧げています。「聖霊降臨日」とは、何でしょうか。「聖霊降臨日」とは、世界で初めて、教会が生まれた日、即ち、教会の誕生日であります。クリスマス、イースターと並んで、教会では、とても大切な記念日の一つであります。
 それでは、そもそも「教会」は、どのようにして誕生したのでしょうか。人間が、会堂建築をしたことによって生まれたのでしょうか。同じ思想をもった人たちが集まったことによって、教会が誕生したのでしょうか。即ち、人間の力や人間の知恵や知識によって、教会が誕生したのでしょうか。
 教会は、人の力や思いで生み出されたものではありません。「教会」は、神様が、弟子たちに、聖霊を与えて下さり、聖霊に満たされた弟子たちが、神様の救いの御言葉を、世界中の言葉で語り始めたことによって誕生したのであります。
 決して、人間の力や思いによって始まったわけではないのです。あくまでも、神様の霊によって、神様の霊に満ちあふれた弟子たちが、神様の救いを世界中の人々に宣べ伝えた。そのことによって、教会が誕生したのであります。つまり、この聖霊降臨日なくして、神様の救いの御言葉が語られることもなく、神様の御言葉が語られることなくして、今の教会もありえなかったということになります。そして、何よりも勿論、私達の信仰が起こされることもなかったのであります。
 「実に、信仰はキリストの言葉を聞くことによって始まる。」このように言われているように、神様の救いの御言葉、キリストの言葉が、まず語られるのです。聞かれるよりもまず、語られる。そのことなくして、教会も、信仰者も生まれることはなかったのであります。
 それでは、私達を信仰へと駆り立てる御言葉とは、どのような言葉なのでしょうか。教会を通して、語られ、宣べ伝えられる言葉とは、どのような言葉なのでしょうか。
 その言葉とは、「キリストについての言葉」ではありません。それは、「キリストの言葉」であります。キリスト御自身の言葉であります。はっきりと言うならば、キリスト御自身が、今、語っている言葉であります。人間が語る言葉ではありません。キリストが語りかけている言葉であります。キリスト御自身が、今ここに生きて、語りかけている言葉であります。牧師の言葉を聞いているのではないのです。キリストの言葉を、私も皆さんと共に聴いているのであります。
 つまり、私達は、ここで、ただ耳を傾けて、キリストについての何かを聞いているわけでも、生きるための豊かな知恵のような言葉を聞いているわけでもないのです。私達は、ここでキリストと出会い、キリストと向き合い、キリストと結ばれて、キリストご自身の言葉を聞いているのであります。信仰とは、ただ、キリストの言葉を耳で聞くだけではなく、キリストとの深い交わりの中で、キリストご自身が語りかけている御言葉に聴くことから始まるのであります。
 では、キリストの語る言葉とは、どのような言葉なのでしょうか。16節の御言葉をお読みします。「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています。」
 パウロは、ここでイザヤ書53章の御言葉を引用しています。イザヤ書53章は、「苦難の僕の歌」と呼ばれています。ここには、救い主の預言が記されています。救い主とは、どのような人なのか。それが、このイザヤ書53章に記されています。
 救い主とは、どのような存在なのでしょうか。人の目に喜ばれるような、理想的な姿・形をしているのでしょうか。それは違います。イザヤ書に記された救い主の姿は、到底、人が受け容れられない姿であります。人々から軽蔑され、人々から痛めつけられ、人々から見捨てられる。力をもった人間ではなく、苦難を背負う御方。そこに救い主の姿がある。そのように、イザヤ書には記されているのであります。だから、信じない人が多かったのだと、イザヤはここで記しているのであります。
 しかし、正に、ここにこそ、主イエス・キリストご自身の姿が記されている。パウロは、そのようここで語るのであります。
 主イエス・キリストは、私達の救い主であります。しかし、その救い主は、私達が望んでいるような輝かしさは、どこにもありません。到底、受け容れられないような貧しさに満ち、輝かしい風格も、好ましい容姿もなく、人々からは軽蔑され、人々に見捨てられた存在であります。
 しかし、その主イエス・キリストこそが、私達の救い主なのであります。なぜでしょうか。その救い主こそ、私達の罪を負い、私達の病を担われたからであります。私達の汚れや痛みを担い、十字架で刺し貫かれたのであります。ここに、私達の救い主の姿があるのであります。ここに私達の救い主の全てがあるのであります。キリストが、今、生きて、私達の前にいて、そのキリストが、今、私達に宣べ伝え、私達が今、キリストによって聞いている言葉とは、このような救い主の言葉なのであります。「あなたのために、わたしは命を捨てるのだ。あなたのために、わたしは痛みを担うのだ。あなたのために、わたしは罪をまとうのだ。この救いを受けてほしい。この救いをあなたの救いとしてほしい。」教会を通して、キリストが生きて語られている言葉とは、このようなキリストご自身の命をかけたところに救いの言葉なのであります。
 このキリストの救いの言葉は、全世界の果てにまで及んでいます。しかし、その言葉は、全ての人に受け容れられないのです。なぜでしょうか。全ての人に言葉は語られている。全ての人が、この救いを聞くことができる。しかし、このキリストの言葉が届かない。なぜでしょうか。
 そもそも「聞く」とは何でしょうか。それは、自分が黙るということです。自分の手や自分の口を止めることです。そして、相手に全てを明け渡すことです。人間は、中々、それができない。自分が聞きたい言葉だけに耳を傾け、自分が納得できないこと、理解できないことには、耳を貸そうともしない。聞いていても、聞いていないのです。
 大事なことは、自分が黙ることです。自分が口を閉じることです。今、目の前に、キリストは生きて、語りかけている。その全てに、自らを明け渡していく。そこでこそ、救いが見えてくる。そこでこそ、キリストの言葉が、この私への言葉として聞こえて来るのではないでしょうか。
 では、主の御言葉を聞き取れなかった人たち。そのような人たちは、そのまま見捨てられていくのでしょうか。それは違います。かつて、神様は、世界中の人々に、キリストの言葉を伝えられました。救いから遠く隔てられた人にも、救いの言葉が伝えられたのであります。
 しかし、それでは終わりません。救いを素直に受け容れられない人に対しても、神様は、日々、手を差し伸べられています。人間が、救いを探し求めるのではなく、捜し求めない人にも、主は、手を伸ばし続け、素直に受け容れられない頑なな人にも、変わることなく、神様は、語り続けてくださる。そして、キリストもまた、そのような人々にも日々語り続けてくださる。その人が一日でも早く、キリストのものとなるように、キリストの救いを受けるように、いつも、教会を通して、語り続けてくださる。その幸いを改めて、ここから深く味わい知る者とされているのであります。どこか遠くで語られる救い主ではない。今、私達の目の前で、あなたのために救いを語り続けておられる。そのキリストに、私達も自らを明け渡し、救いの光に満たされて、共に新たに歩み出すものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:30| 日記