2018年05月31日

2018年5月27日 主日礼拝説教「残りの者が救われた」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙11章1節〜10節
 ローマの信徒への手紙の著者である使徒パウロには、大きな悩みがありました。その悩みとは、イスラエル人が救いを得ていないということです。自分の同胞、自分の家族であるイスラエル人が救われていない。神の民として選ばれ、恵みをうけ、救いの約束を担ってきたイスラエル人です。しかし、そのイスラエル人が、救い主を受け入れることができなかった。そこにパウロの深い悩みがあるのであります。
 それでは、イスラエルの人々は、このまま、救われずに終わっていくのでしょうか。神様に見捨てられたまま、救いを得ることなく、滅んでしまうのでしょうか。
 パウロは、この深い悩みの中で、しかし、それでもイスラエルの人々は、救われる。そのように確信しているのであります。それでは、この確信の根拠とは何であるか。それが、今朝の御言葉の大きなポイントとなるところなのであります。私達にとっては、まだ救いを得ていない家族や知人、そして、日本に生きる全ての人々。それらの人々の救いに関わる大切な言葉であると言えるかもしれません。
 それでは、その確信の根拠とは何でしょうか。それは、第一に、パウロもまた、イスラエル人であるということです。「わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。」このようにパウロは、語っています。
 自分もイスラエル人なのだというのです。そして、そのイスラエル人である、この私が、主イエス・キリストと出会い、主イエス・キリストを通して救われていった。だから、イスラエル人が見捨てられることはないのだ。そのように確信しているのであります。
 パウロという人を思い起こしたいと思います。彼はイスラエル人です。そして、彼は、かつて熱心なユダヤ教徒でありました。自分は、神の民であるという強い自覚と誇りがありました。その誇りによって、主イエス・キリストを憎み、キリスト者を積極的に迫害し、教会を滅ぼそうとしてきたのであります。それが、かつてのパウロであります。
 しかし、そのようなパウロとキリストは出会ってくださった。そのようなパウロに罪を示し、救いを示して下さった。このような弱い者ですら、神様は、キリストを通して、新しくしてくださった。そうであるならば、イスラエル人が見捨てられるはずはない。イスラエルが救われないはずはない。そのように強く確信をするのであります。
 私達も又、悩みがあります。自分の家族が救いを受け容れてくれないことがある。自分の知り合いがキリストを受け入れないことがある。日本の社会が、キリストを受け入れてくれない。彼らは救われるのだろうか。彼らは見捨てられてしまうのではない。そのような不安を持たれる方もいるだろうと思うのであります。
 しかし、そのような深い悩みの中で、何を思い起こすべきなのか。それは、この私が救われているということです。自分の力や自分の努力によってではなく、神様が、この私に恵みを与え、キリストを与え、救い出して下さった。この弱い、無力なものを、神様が、キリストによって赦し、神の民としてくださった。そうであるならば、この目の前にいる家族が、知り合いが、日本の社会が、救われないはずはない。見捨てられるはずはない。まずは、その確信に立つということが、私達にとって大切なことなのであります。
 キリストを受け入れない、頑な人が救われない。神様は、その人たちを見捨てているのか。そうではないのです。今、この私が救われている。だからこそ、全ての人が救いへと招かれている。これが一番の大きな根拠となっている。その確信にたって行くことがとても大切なのだと、ここで気づかされてるのであります。
 イスラエルの人々が、見捨てられていない。その根拠は、もう一つあります。2節から6節をお読みします。「神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。『主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。』しかし、神は彼に何と告げているか。『わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた』と告げておられます。おなじように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。」
 「エリヤ」とは誰でしょうか。エリヤとは、神様が遣わした預言者です。彼は、不信仰に落ちたイスラエルの人々を悔い改めへと導くために、孤立奮闘した預言者でもあります。 しかし、罪に落ちたイスラエルの人々は、主の祭壇を壊し、エリヤの仲間を殺し、ついに一人になってしまった。完全に孤立をしてしまった。その深い不安と嘆きの中で、エリヤは、この苦しみを神様に訴えかけた。それが、ここに引用された御言葉であります。
 このエリヤに対して、主は、どのように語られたのでしょうか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と言うのです。あなたは一人ではない。あなた孤立していない。あなたと同じように、神様の救いに立つものを、私は、ちゃんと残しているのだ。だから、あなたはひとりではない。そのように語るのであります。
 家族が救われない。知り合いが救われない。クリスチャンである自分が孤立したかのように苦しむこともあるだろうと思います。しかし、あなたは一人ではないのだ。あなたと共に歩む人を、わたしは備えているのだ。そのように主は語りかけているのではないかと思うのであります。
 しかし、神様は、このようにも言うのです。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を『自分のために』残しておいた」と。神様のために、七千人を残すのです。なぜでしょうか。その七千人を救い上げることで、イスラエルの人々が、まだ、見捨てられていないということをお示しになるためであります。
 イスラエルの人々は、頑ななのです。神様の道から外れていったのであります。しかし、その中にも、七千人が残され、選ばれている。それは、まだ、イスラエルの人々が、見捨てられていないということの大きな約束なのであります。全てを滅ぼせるはずの神様であります。しかし、七千人の残りの人を救うことを通して、まだ、この民は見捨てられていない。まだ、立ち上がれる。そのように、神様は、強く訴えているのであります。
 この七千人は、優れた人であったでしょうか。それは違います。圧倒的な少数派であり、特に優れた人たちではないだろうと思うのです。しかし、主が、その人々を残し、そして選ぶ。そして、その人々を救う。そのことを通して、世界がまだ、主によって見捨てられていない。そのことを、主御自身が約束してくださったのであります。
 家族がキリストを受け入れないことがある。知人がキリストを受け入れないことがある。しかし、この私は主によって選ばれた。この大きな世界の中で、この私を残し、この私を主が選び出して下さった。そして、この苦難の中で、私だけではなく、どこかで残された誰かが救われている。そうであるならば、私の目の前にある社会に生きる人々が見捨てられているはずはない。そのように、ここでは強く語られていくのであります。
 救いとは、主の選びでもあります。救いは、自分で選ぶことではなく、神様が、恵みをもって、私達を選ぶことであります。しかし、その反面で、選ばれない人がいる。頑なになっている人がいる。しかし、それもまた、主の御手の中にあることでありましょう。
 頑なにされるのは、神様の救いが、神様によってのみ与えられることを、神様御自身がお示しになるために必要なことなのであります。しかし、頑なな人が救われないわけではないのです。この私が救われた。この私が罪赦されて救われている。そうであるならば、今、頑なになっている人が、滅ぼされるはずはない。その人たちもまた、神様の救いの御手の中にある。信仰をもたない人の多い世界の中で、この私こそが、主のために残され、そして、救われている。そうであるならば、まだ、この世界は見捨てられていない。そう確信して立ち上がりあがり、主に委ねつつ、歩み出す。そこにキリスト者の深い歩みがあると言えるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:30| 日記