2018年07月12日

2018年7月8日 主日礼拝説教「信仰によって立つ」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙11章19節〜20節

 キリスト教の救いとは、「信仰による救い」です。キリスト教の救いは、「自力による救い」ではありません。人間は、人間の力によって救いを勝ち取るのではありません。あくまでも、信仰によって救いを頂くのであります。
 それでは、ここで言われている「信仰」とは何でしょうか。「神様を信じること」でしょうか。もし、「神様を信じることが救い」とするならば、どうなるのでしょうか。「私の信じる力によって救いを得る」ということになります。それでは、結局の所、「自力による救い」となるのではないでしょうか。それでは、「キリスト教の信仰」とは、一体、何を意味しているのでしょうか。
 19節〜20節「すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」
 ユダヤ人は、「折り取られた枝」です。異邦人は「接ぎ木された枝」です。ユダヤ人は切り取られた枝です。異邦人は拾われた枝です。この違いは、どこにあるのでしょうか。それが「信仰」です。ユダヤ人は「不信仰」だったのです。だから切り取られたのです。異邦人は「信仰」によって接ぎ木されたのです。信仰があるかないか。それが、まず、救われるか、切り取られるかの境目となるのであります。
 それでは、ユダヤ人は、本当に「不信仰」だったのでしょうか。彼らは、誰よりも、神様を真剣に信じた人々です。御言葉を熱心に聞き、礼拝を大事にし、祈りの生活を中心としていたはずであります。神様の御言葉に対して忠実に、それを守る生活をしてきた人々であります。しかし、そのユダヤ人が「不信仰」だと言われたのであります。
 それでは、異邦人は、本当に「信仰」によって立っていたのでしょうか。彼らは、真の神様を知らずに生きてきた人々です。聖書も知りません。祈ることも知りません。礼拝を捧げてきたわけでもありません。何も持っていない。何もしていない人々であります。しかし、その異邦人が「信仰によって立っている」と言われているのであります。
 熱心に信じてきた人々が、「不信仰」と呼ばれ、何も信じてこなかった人々が「信仰者」と呼ばれる。熱心に信じてきた人々が「不信仰」の故に切り取られ、何もしてこなかった人々が「信仰」に立って救われるのです。
 ここから分かりますように、「信仰」とは、「私が熱心に信じること」ではないということです。「信仰」とは、「何もない人々」に対して与えられる「恵みの賜物」なのであります。カール・バルトという神学者がいます。バルトは、「『信仰』とは、裸の私に服を着せて頂くようなものだ」と記したそうです。信仰とは、あくまでも、与えられるものなのであります。私達の内には何もないかもしれません。信じる力は何もないかもしれません。
 しかし、神様は憐れみをもって、私達に、信仰という名の服を着せて下さる。それが、「信仰」です。そして、その信仰を頂く人こそが、その頂いた信仰によって救われる。神の子とされる。神様に相応しい人にされる。ここにキリスト教の救いがあるのです。
 そして、そうであるからこそ、私達は「思い上がること」が出来ないのであります。もし、「信仰」が、「私の信じる力」であるならば、人は「思い上がる」ことがあります。いや、思い上がってもおかしくはないのであります。しかし、もし、信仰が「与えられる恵みの賜物」であるならば、何も持たない自分を恥じながら、謙虚に、その恵みに与れるはずなのであります。
 「思い上がる」ということは、決して、私達の信仰生活と無関係ではないだろうと思います。信仰を頂き、信仰生活を積み重ねていきながら、いつの間にか、思い上がってしまうことがあるかもしれません。自分が信じている。自分が信じているから救われている。自分の信じる力が大事になる。気づかないうちに思い上がってしまうことがあるかもしれないのです。信仰生活を積み重ねながら、いつしか、自分は信仰生活のベテランになったように思い違いをしてしまうこともあるかもしれません。そして、信仰生活とは、こうでなければいけない。教会とは、こうでなければいけないと、自分の信仰生活を絶対化し、自分の価値観を基準に物を考え始めてしまうこともあるかもしれません。あるいは、信仰が正しいのではなく、信じている自分が正しいという思いに支配されてしまうこともあるかもしれない。そのように考えていくならば、信仰生活を積み重ねるということは、信仰が自分の力になってしまうこととの激しい戦いの生活なのかもしれません。
 それでは、私達は、どのように生きることが大事なのでしょうか。それは、「恐れる」ということです。「恐怖」ではありません。「畏敬」をもって「恐れる」ということです。神様に立ち帰るということかもしれません。信仰が自分のものではなく、神から来る恵みであることを、もう一度、確かめることでもあります。自分の愚かさを知り、神の恵みを覚え、主を畏れ敬うということ。それが大切なのではないでしょうか。
 箴言1章7節「主を畏れることは知恵の初め」とあります。「知恵」とは、神様を知ることです。それは正に、「信仰」とも言えるかもしれません。信仰生活の初歩。それは、「主を畏れること」なのであります。
 信仰は、どこから来るのか。それは、自分からではない。自分には何もない。しかし、こんな私に対して、神様がキリストを与え、キリストを惜しみなく捧げ、キリストと結びつけてくださり、そして、信仰という名の服まで与えて下さった。自分の無力さを知りつつ、主の憐れみへと立ち帰る。ただ、主のみ見上げて生きていく。そこに主を畏れる信仰者の姿があるのです。 
 信仰者の生活とは、信仰生活のベテランを目指すことではなく、徹底的に、信仰生活の初歩を思い起こし、主を畏れることを知り続ける生活なのです。そして、それは、自分の無知、無力と向き合いながら、それでも、キリストの愛に立ち帰り、信仰の恵みの原点へと目を向け直しつつ、恐れをもって主を見上げ直していく生活なのであります。そして、それは、同時に、自分の弱さを超えて、それよりも大きな憐れみをもって、神様が、御子を捧げ、惜しみなく死に渡し、この私とキリストと固く結びつけ、信仰の服を着せてくださった。その幸いを何度でも味わい直すことができる生活なのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:05| 日記