2018年07月17日

2018年7月15日 主日礼拝説教「神の慈しみと厳しさ」

聖書:ローマの信徒への手紙11章21節〜22節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙11章21節から22節の御言葉であります。
 この聖句全体を読んでみますと、「ユダヤ人」は、不信仰の故に「折り取られた枝」にたとえられています。「異邦人」は、信仰の故に「接ぎ木された枝」にたとえられています。
 ここには、大切なことが二つ示されています。それは、「折り取られる」のも、「接ぎ木される」のも、「一本の木」であるということであります。それは、即ち、ユダヤ人にとっても、異邦人にとっても、救いは一つ、神様は一人なのだということなのであります。
 私達人間は、皆、違う存在です。見た目も違います。考え方も違います。経験も違います。育てられた環境も違います。人間は、皆、違う個性を与えられて生きています。
 しかし、その違いの中にも決定的に同じことがあるのです。それは、私達は皆、一人の神様、一つの救いの前に立っているということであります。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、私達であろうと、私達は皆、一人の神様、一つの救いのもとに立たされている。これだけは同じなのであります。そのことを、ここで改めて教えられるのであります。
 さて、もう一つ大切なことがあります。それは、全てが「一本の木」から始まるのだということです。即ち、「一本の木」があるからこそ、枝が生きるということです。枝が木を生かしているわけではないのです。一つの木があるからこそ、そこに枝が生きるのであります。
 つまり、私達がいるから、神様がいるわけではないということです。私達が働くから、救いが生まれるわけでもないということであります。神様がいてくださる。神様の救いがそこに実現している。だからこそ、そこに連なる、あるいは、そこに接ぎ木される枝が、豊かに命を得るのであります。
 このように、私達は、皆、一つの神様に繋がっている。そして、同じ一つの救いに連なっている。その救いは、人間から作り出されるものではない。神様がまずいてくださり、救いがまず実現していく。そのところに、私達は共に、結ばれて、共に生きることができる。違いはあっても、そこに共に生きるのであります。その幸いが、ここでまず示されているのです。
 神様は一人、救いは一つ。そこに救いの平等性があると言えるでしょう。しかし、ここでもう少し踏み込んで申し上げるならば、それは、「救い」が「平等」であるならば、等しく罪もあるのだということです。そこにも優劣はないのであります。あの人の方が優秀だから罪を軽くして頂くということはないのであります。救いが平等の救いであるならば、同じように「罪」もまた、「平等」のところにあるのです。
 そこで、更に踏み込んで言うならば、「裁き」も同じであるということです。あの民族が優れているから裁きは免れるということはないのです。罪が等しくあるならば、同じように裁きもある。ユダヤ人が厳しく裁かれたのであるならば、異邦人もまた、裁かれない保証はないのだということであります。
 信仰生活とは、救いを受けた人の生活です。そして、それは、神様の恵みによってのみ立つ生活です。この信仰も、この生活も、その全てが、神の恵みによって初めて成り立っている。そこに目を向けて生きる生活が信仰生活です。そして、それは、神様の慈愛、神様の恵み、神様の憐れみに留まる生活であるとも言えるでありましょう。
 しかし、慈愛に満ちた神様は、同時に、正しい神様です。私達の罪に対しては、ユダヤ人のように厳しく扱われる御方でもあります。そうでなければ、神様は偽りの神様になってしまうのであります。神様は正しい御方。その正しさをもって、不信仰や罪に対しては、厳しくおられる。その信仰者−ユダヤ人であろうと異邦人であろうと−を裁かれるのであります。
 パウロは、記します。「神の慈しみと厳しさを考えなさい」。慈しみだけではないのです。そして、厳しさだけでもない。しかも、大事なことは、それらが矛盾しないということです。つまり、慈愛も、峻厳も一つのことなのです。
 では、どこで共通していけるのでしょうか。それは、「神様の真剣な御心」であります。宗教改革者ルターは、この二つの言葉に「真剣」という言葉を入れたそうです。神様は、救いに対して真剣であるということです。真剣に慈しみ、真剣に厳しくおられる。私達が、救われることに真剣に生きて下さる。それが神様の御心なのであります。神様の厳しさを知るということは、それは、神様が真剣に私達を救おうとしていることを意味しているのであります。真剣に救いを考えておられる。だから、厳しく、峻厳に、私達と向き合って下さる。そのように考えるならば、厳しさもまた、愛なのであります。
 慈しみもまた、真剣であります。憐れみもまた、真剣であります。御子を死に渡されるほどに、真剣です。神様は、今、あなたの信仰生活において、真剣に、あなたの救いを思いながら、あなたの前に生きて下さる。その神様の真剣な眼差しに捕らえられながら、歩み続ける。そこから立ち上げられていく。そこに私達の姿がある。
 そして、その神の救いに対する真剣さを知るという生活は、正に、神の御心に思いを向け直していく生活なのであります。私達に対して、神様が、真剣に救いを思っていて下さる。真剣に愛を貫かれ、真剣に裁きを貫かれる。その神様の真剣な眼差しに目を向け直していく。ここにこそ、真の悔い改めを為し続ける、信仰者の姿が記されているのであります。救いは等しい、罪も等しい、裁きも同じように等しい。しかし、神様が、あなたの救いを真剣に思い続けて下さる。これもまた、等しい恵みなのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 06:29| 日記