2018年08月06日

2018年8月5日 主日礼拝説教「不従順を知り、憐れみを知る」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙11章28節〜32節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙11章28節から32節の御言葉であります。28節から29節の御言葉をお読みします。「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」
 今朝の御言葉は、「福音について言えば」という言葉から始まります。これは、言い換えるならば、「主イエス・キリストの救いについて言えば」となります。つまり、「主イエス・キリストの救いについて言えば、イスラエル人は、神に敵対している」ということであります。
 これは事実です。即ち、イスラエル人−ユダヤ人−は、主イエス・キリストを受け入れなかったのであります。主イエス・キリストを十字架につけて殺したのであります。その意味で、「主イエス・キリストの救いについて言えば、イスラエル人は、神と敵対した」のであります。
 しかし、この主イエス・キリストの十字架の死が、一体何をもたらしたのでしょうか。全ての人に対する罪からの救いを実現させたのであります。その意味で言うならば、イスラエル人の敵対心が、十字架という救いの出来事を起こす一つの契機となったのであります。いや正確に申し上げるならば、イスラエル人の敵対心すらも、神様の救いのご計画の一部に用いられたのだ、ということになるのであります。
 それでは、イスラエル人は、このまま見捨てられてしまうのでしょうか。それは、勿論、違います。聖書には、次のように記されています。「神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」と記されています。
 彼らの罪が如何に大きく、深いものであったとしても、彼らが、神の民であるという約束は変わることはないのです。そもそも、先祖たちは、決して強い人々ではありませんでした。彼らも又、失敗も多かったのです。しかし、神様の深い憐れみによって、神の民で有り続けたのであります。そうであるならば、ユダヤ人の罪が如何に深く大きなものであったとしても、神様が、イスラエルの人々を愛している、選んでいる、招いている。その恵みだけは決して変わることはないのです。
 そして、このイスラエルに対する神様の深い愛が、どこで貫かれているか。そのこともまた、覚えておきたいことでありましょう。ローマの信徒への手紙5章10節の御言葉をお読みします。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」このように記されています。 
 神様のイスラエルに対する深い愛情は、どこで貫かれていくのでしょうか。この十字架のキリストによって、やはり貫かれているのでありましょう。あの十字架は、正に、異邦人だけの救いではないのです。敵対したユダヤ人を和解へと招き、神の民として再び立ち上がらせるための救いでもあるのであります。その神様の救いの広さ、深さを、私達は、改めて、ここで味わい知る者とされるのであります。神に敵対し、御子を殺すほどの不従順であったとしても、その人のために、神様は御子を与えられたのです。その人間がどうであろうと、神様の愛は、決して変わらない。その幸いが、ここから強く表されていくのではないでしょうか。
 30節から31節の御言葉をお読みします。「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。」
 異邦人もまた、不従順だったのであります。異邦人が救われたのは、異邦人が優れていたわけではないのです。異邦人もまた、不従順であった。しかし、十字架の死と復活によって、神に赦され、神の民へと導かれていった。惜しみなく、御子を死に渡されるほどの絶大なる神様の憐れみによって、不従順から解放された。神様の目に正しい者へと変えられていったのであります。
 つまり、神様の救いとは、神様の憐れみそのものであり、不従順なものを、神の目に正しい者へと造りかえる。そのことに他ならないのであります。そうであるならば、今、不従順であるユダヤ人が、異邦人と同じように、十字架のキリストを通して、憐れみを受け、従順なる者へと造りかえられていく。そのこともまた、決して不可能なのことではないのです。 
 ここで大事なことは、神様の憐れみの深さでありましょう。神を知らぬ異邦人を救い、神に敵対する者をも招かれる。そのためには、御子すらも、惜しみなく死に渡される。この大きな憐れみ。計り知れない憐れみ。その憐れみを、改めて、心に留めるものでありたいのであります。
 最後に、32節の御言葉をお読みします。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」
 神様が、すべての人を不従順の状態に閉じ込める。不思議な御言葉であります。なぜ、神様は、私達を不従順のままにしたのか。不従順は、神の責任ではないか。そのように読むことも出来るだろうと思うのです。
 しかし、不従順は、あくまでも、人間の責任であります。神の責任ではありません。ここで大事なことは、不従順な人間が、見捨てられていないということであります。捨てられているわけではないということであります。神の手の中にあるのだということでありましょう。人間の罪、人間の不従順さの闇が、如何に大きく、深いものであったとしても、誰一人として、神の御手からはこぼれ落ちていないのであります。その不従順さを、神は、その御手の中でよくご存じなのです。しかし、その一人一人をまず、主の手の中に入れておられるのであります。
 神を知らぬ人も、神を知っていても、人は、時に、不従順の中に落ちてしまう。しかし、そのこぼれ落ちていく一滴のしずくのような、私達であったとしても、神の御手の中に置かれている。それが、ここでまず強く示されていくのであります。
 しかし、ここでももう一つ大切なことがあるのです。それは、私達は不従順のままではないということです。私達の力では不従順を乗り越えられないのです。人間が人間の力では、不従順が逃れることはできないのです。
 では、どうしたら逃れられるのでしょうか。そこに、神様の憐れみが働くのであります。そこにキリストの十字架の光が指すのであります。人間の力では救いは得られないのであります。不従順のままでいざるを得ないのであります。
 しかし、必ず、神様は、全ての人を憐れみによって救い出す。罪の中にあっても、神様の手の中にいるのです。しかし、罪の中に留まらせるのではないのです。憐れみによって、一人一人を神の民としてくださり、再び命を与えてくださり、憐れみを与えられるのです。その神様の救いの可能性こそが、ここで力強く指し示されていくのです。
 私達は、その神様の救いの可能性、憐れみの絶大さを、日々の生活の只中で、味わいながら、歩み続けることができるのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:25| 日記