2018年08月13日

2018年8月12日 主日礼拝説教「神の富と知恵と知識」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙11章33節〜36節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙11章33節から36節の御言葉であります。33節をお読みします。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究めつくし、神の道を理解し尽くせよう。」
 「神の富」とは何でしょうか。これは「神の豊かさ」です。もう少し前後の文脈に合わせて言い換えると、「神の憐れみ・救いの豊かさ」です。神様に対する人間の罪がどれだけ大きいものであったとしても、その一人のために、御子イエス・キリストを、惜しみなく死に渡される。御自身の御子を十字架に架けるほどの敵に対しても、そのあなたのために御子を惜しみなく捧げられる。ここにこそ、私達人間には、到底、測り知ることのできない、究め尽くことのできない、理解を超えた「憐れみの豊かさ」があるのではないでしょうか。
 「神の知恵」とは何でしょうか。これは「神様の救いの知恵」のことです。神様の救いは、神様の知恵によって実現するのです。これを更にかみ砕いて申し上げるならば、「神様の救いは、神様の知恵に満ちたご計画によって成り立っている」ということであります。「救い」というものは、人間の知恵によって成り立っているわけではないのです。人間が知恵に満ち、悟りを開くことによって救いが分かるということではないのであります。むしろ、人間の知恵では、窮め尽くせない、理解しえない、その先に、神様の救いのご計画がある。自分が納得するから救いを受けるのではなく、納得できない所にこそ、実は、神様の救いの知恵・神様の救いのご計画がある。だからこそ、神の救いの知恵は、計り知れないほどに深いのであります。
 「神の知識」とは何でしょうか。それは、「神様が私達を知っている」ということです。私達のことを、私達よりもよく知っているということです。私達の痛み、悲しみ、苦しみだけではありません。私達の罪を、私達よりもよく知っている。それは、言い方を変えて申し上げるならば、この私達よりも、私達にとって本当に必要な救いを知っているということであります。そして、そのことをよく知っている上で、御子を与えられた。御子を惜しみなく死に渡された。罪の悲惨さを知りながら、御子を捧げられた。これは、人間の知識では、到底、窮め尽くせない憐れみなのであります。
 このように、「神の富」「神の知恵」「神の知識」の深さは、同様に、私達に対する神様の救いの深さ、憐れみの深さを教えてくれます。神様の救いは、深いのであります。そして、その救いは、計り知れない豊かさ、知恵、知識に基づいた救いなのであります。
 それでは、神様とは、窮め尽くせないほどに遠くにおられる方なのでしょうか。実は、それも違うのです。「深さ」を知るためには、その「深さの中に」いなければ、決して、分からないのです。神の豊かさ、知恵、知識もまた、神様の御手の中にあって、その深さを知ることができる。私達は、神様のことを何も分からないのです。救いのこと、自分の罪のことも分からないのです。何も知らない無知、無力なものなのであります。
 しかし、そのあなたが、今は、もう既に、神様の手の中に生かされている。神様の御支配の中で、神様の救いの光の中で、その恵みの深さを喜び、賛美するものとされているのであります。神は遠くにいます神ではなく、窮め尽くせない神の手の中で、私達は、神様の測り知ることの出来ない恵みの深さを喜ぶものとされているのであります。
 34節〜35節の御言葉をお読みします。「『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。』」
 この聖書箇所は、イザヤ書とヨブ記の引用です。両方の箇所に共通することがあります。それは、「神様の正しさを疑う人間の姿」です。バビロン捕囚という悲惨な歴史の中で、イスラエルは、神の正しさを疑いました。ヨブは、自分に受けた悲惨の状況の中で、神の正しさを疑った。神の正しさを疑うということは、人間の正しさを優先するところへと人間の方向を変えてしまいます。
 そのような人間の愚かさの中で、これらの御言葉が語られていきます。神様は、人間の思うようにはならない。神様の正しさは、神様にしかとらえられない。人間が神を振り向かせたり、指示することはできない。このように人間の弱さと共に、神様の絶対的な主権について、ここで語られているだろうと思います。
 しかし、その一方で、パウロは、この引用文を「賛美の言葉」として記しているのではないでしょうか。自分は弱い。自分は無知、自分は神に対して何も出来ない。自分は何も分かっていない。しかし、それでも、その私が、神様の深い御心の中に入れられている。神の御手の中に抱かれている。この幸いは、何にも変えられない。そのような喜び、そして、賛美の言葉が、ここで示されているのではないかと思うのであります。
 そして、そうだからこそ、この聖句は、最後、賛美の言葉で閉じられていくのではないかと思うのです。36節「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にあるように、アーメン。」
 この賛美の言葉は、罪ある世界、死の支配する世界の中で歌われています。そして、この賛美は、もう罪も死もなく、ただ、神の支配、神様の救いの支配が、ここにあることを賛美している。この賛美を心から歌える人は誰でしょうか。それは、もう既に、罪と死から解放された、私達です。罪と死に勝利している私達こそが、心を込めて、この賛美を口にすることができる。究められない神様の御手の中で、何も分からない、無力で、弱い私達が、神様の救いを心から喜び、その計り知れない恵みを味わいつつ、罪と死に捕らわれることなく、ただ主のみを見上げて賛美ができる。ここにキリスト者の大きな幸いがあるのです。
 神様の恵み、救いは、深くてとらえきれないものです。しかし、私達がとらえられなくても、神様が、わたしたちを強くとらえてくださいます。そして、罪からも死からも解き放たれた、本当の自由な、神様の御手の中で、そのとらえきれない神の恵みを、私の恵みとして、心から賛美することができる。その幸いを新たに心に留めて行くものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:29| 日記