2018年09月30日

2018年9月30日 主日礼拝説教「霊に燃えて」須賀 工牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章11節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章11節の御言葉です。改めてお読みします。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」私達の信仰生活は、「怠ることなく、励む」生活なのだと、言われています。
 それでは、一体、何を「怠ることなく、励む」のでしょうか。それが「主に仕えること」なのであります。
 つまり、「神様に仕えること」において、「怠ることなく、励みなさい」と勧められているのであります。それが、私達の信仰生活において、大切なこととして、ここに示されているのであります。
 ここで記されている「励む」という言葉には、もう一つ、面白い意味があります。それが「急ぐ」という意味です。そのことを踏まえて、改めて申し上げると、「信仰生活とは、急いで、主に仕える生活」なのだと言うことになります。
 それでは、「急いで、主に仕える生活」とは、一体、どのような生活なのでしょうか。それは、やみくもに突っ走る信仰生活のことでしょうか。あるいは、立ち止まることも休むことも許されない信仰生活のことなのでしょうか。
 勿論、そうではありません。私達が急ぐ時、それは、他の何物よりも優先すべき何かがあるときです。つまり、ここで大切なことは、走り続けるとか、休むな、ということではなくて、「他の何物よりも主なる神様を優先して生きる生活」。そのような生活を送るということです。これが「怠ることなく励む生活」であり、「急いで、主に仕える生活」なのであります。まず、何よりも先に、主なる神様を見上げて生きる。ただ、主のみを見上げて生きる。そこに「急いで主に仕える信仰生活」、あるいは、「怠ることなく、励む信仰生活」があるのであります。
 しかし、私達の信仰生活は、決して、完璧な生活ではありません。人間には限界があります。ただ、神様だけを見上げる生活においても、限界があるのが人間の現実です。途中で息が切れることもあります。目を閉じて眠ってしまうこともあれば、よそ見をして転んでしまうということもあるだろうと思います。
 つまり、私達には限界があるのです。神様だけに思いを向け続ける力が、私達の内にはないのであります。それは、私達一人一人の経験を省みたところで、良く分かるものではないかと思うのであります。
 しかし、そのような人間の限界を知る所でこそ、私達は、神様の可能性を見るものとされているのではないでしょうか。人間の内に、主を見上げる持続力−エネルギー−はないのです。そうであるならば、その持続力−エネルギー−とは、私達の内からではなく、私達の外から与えられるものなのだということ。そのことに思いを至らしめることができるのではないかと思うのです。
 つまり、人間には、持続不可能な信仰生活も、外側の力を頂いて、初めて可能たらしめるものとなるのだということを、改めて知る者とされているのではないかと思うのであります。
 それでは、信仰生活を持続たらしめる、外側からくるエネルギーとは何でしょうか。それが「霊に燃える」ということなのであります。この「霊」とは、「人間の霊」とか、「人間の魂」とか、あるいは、人間の「心」という意味ではありません。これは、「聖霊」のことであります。「神様の霊」であります。
 つまり、私達を奮い起こし、私達を何度でも立ち上がらせるのは、私達の力ではないのであります。神様が、霊を与え、神様が、私達のうちに生きて働いてくださる。それによって、私達は、神様のみを見上げる信仰生活を送り続けることが可能となるのであります。これが信仰生活なのであります。
 つまり、信仰生活とは、自分の力で立ち上がり、歩み出すことなのではなく、日々、主の霊を頂き、主の霊を注がれて、主によって立ち上げてもらう。主に支えられながら、主のみを見上げて生きられる生活なのだということなのです。
 それでは、この霊に燃えるとは、更に何を意味しているのでしょうか。ローマの信徒への手紙5章5節には、次のように記されています。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
 聖霊によって燃やされる。それは、神様の愛が注がれることなのであります。神様に愛されていることを再び知ることなのであります。御子イエス・キリストを惜しみなく、死に渡されるほどの、計り知れない愛を知ることなのであります。
 私達は弱い者であります。信仰生活を健全に持続することが出来ないものであります。しかし、そのような私達が、置いていかれたり、見放されて終わっていくのではないのです。私達の日々の信仰生活の只中にこそ、あなたのために、御子をささげるほどの、神様の測り知ることのできない愛が注がれ続けているのであります。ここにキリスト者としての本当の恵みがあるのだと思うのであります。
 自分の力では、主を見上げ続けることのできない。そのような人間の弱さを知りつつも、その私達のうちに、聖霊を通して、神様の愛を注ぎ続けてくださる。そして、その愛をもって、私達の足を支え、新たに歩み出す者へと導き続けてくださる。改めて、主の見上げる生活へと、主が駆り立ててくださる。その大きな幸いこそが、この所で強く表されているのであります。
 信仰生活は、何よりもまず、主なる神様を見上げる生活であります。しかし、そこでもう一つ大切なことがあります。それは、私達が主を見上げるよりもまず、神様が、私達を見つめていてくださるということであります。信仰生活とは、私達が主を見上げるよりも先に、主の温かい眼差しの中に生きることを喜ぶ。そのような生活であると思うのであります。
 礼拝の最後に、祝祷をささげます。「願わくは主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたがたを照らし、あなたがたを恵まれるように。」そして、このように続きます。「願わくは主がみ顔をあなたがたに向け、あなたがたに平安を賜るように。」
 礼拝の恵みをうけて、新しい生活へと向かって行く。その信仰生活は、主の眼差しの中にある生活なのであります。主が見つめ、主が愛を注ぎ、真の希望と平安と喜びを頂き、私達は初めて、信仰生活を持続することができる。主を見上げ返す生活ができる。その幸いが、このところで、改めて強く示されているのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:10| 日記