2018年10月17日

2018年10月14日 主日礼拝説教「希望は欺かない」須賀 工牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章12節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章12節の御言葉です。改めて御言葉をお読みします。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」 クリスチャンの生活は、「希望をもって喜べる生活」であります。「希望」は、実現したら、その地点から「希望」ではなくなります。つまり、「希望」とは、今はまだ、実現していないことであります。今はまだ、実現していないけれど、必ず最後には実現することであります。これが「希望」であります。
 但し、人間の最後は「死」であります。つまり、必ず最後には実現する「希望」とは、「死」を越えた先にある「希望」でなければいけません。私達に与えられた「希望」とは、そのような「希望」であります。正に、「死」すらも凌駕するほどの大きな「希望」です。「死」によって揺らぐことのない「希望」です。死の先にこそ、真の希望があるのです。
 人間は、生きていく中で、沢山、悲しみます。沢山、苦しみます。沢山、痛みを負います。そして、その苦しみの中で、「希望」が見出せない時があります。
 しかし、「希望」とは、私達の目に見える所にあるものではなく、私達の目には見えない「死」の先にあるものなのです。これが「真の希望」なのであります。
 苦しみの中で、悲しみの中で、痛みの中で、倒れてしまうことがあるかもしれません。しかし、私達には、死を越えた先に「真の希望」が約束されている。そのように思いが至る時、この今の苦しみが、最後の苦しみになるではなく、「真の希望」に向かうための一つの通過点であることに思いを至らしめる者とされるのであります。
 そして、正に、その希望を土台とした所でこそ、私達は、初めて、そこで喜びをもって生き、更には、苦難を耐え忍ぶ。そのような新しい生活へと歩みを進めていくものとなるのであります。
 どのような苦しみ中にあっても、その苦しみが永遠ではないことを知っているのです。その苦しみの果てに死があります。そして、その死を越えた先にこそ「真の希望」があることを知っている。その幸いを知る時、この今の苦しみは、いつかは過ぎ去るものであることを知ることができる。その幸いを深く知るからこそ、今を喜ぶ者となるのです。あるいは、その幸いを深く知る所でこそ、初めて苦難を耐え忍ぶ者となるのであります。
 はっきりと申し上げなければいけないのは、信仰者の生活とは、苦難が取り去られる生活ではありません。苦難を耐え忍ぶ生活です。苦難の下に留まる生活です。
 しかし、その苦難とは、永遠の苦難ではないことを知っています。私達には、死を越えた先に、真の希望がある。そのことを深く見つめながら、苦しみの中をも歩んでいけるのであります。「もうダメだ」と思わなくても良いのです。私達には、「終わりがない」ことを、私達は、既に知っているのであります。
 しかし、人間は完璧ではありません。苦難の中で、希望を忘れてしまうことがある。真の希望に思いが至らないこともある。死の先にある希望よりも、早く希望が欲しいと思うこともある。死の先にある希望が見出せないこともあるでしょう。それもまた、人間の自然な姿であると思います。
 しかし、そのような人間の現実の中でこそ、大切なことがあります。それが「たゆまず祈る」ということです。言い方を変えて申し上げるならば、神様との交わりに生きるということであります。真の希望が見えない所でこそ、私達は、自分で、それを探すのではなく、主を頼って良いのであります。自分で希望を見つけるのではなく、神様が、真の希望を与えてくださる。そのところに、寄りかかって良いのであります。希望が分からないから、神様から離れてしまうのであれば、いつまでも、希望が分からないままであります。真の希望が何であるかを、神様との交わりに生きるところでこそ、私達は知る者となるのであります。希望を喜び、苦難を耐え忍ぶ生活とは、自分一人で頑張る生活ではなく、神様との深い交わりの中で、真の希望を知り、その恵みの中で、喜び、忍耐する生活なのであります。
 ローマの信徒への手紙5章5節には、次のように記されています。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」神様との深い交わりの中で、私達は神様の愛を知り、神様の愛を知るところで、希望が真実であることを知る者とされる。それが、私達に与えられた信仰生活なのであります。
 さて、真の希望とは何でしょうか。それは、死を越えた先にある希望です。死の先にある希望とは何でしょうか。それは「永遠の命」であります。「神様と共に生きる命」とも言えるかもしれません。この地上から離れ、神様の支配する国で、神様と共に生きること。これが、「永遠の命」です。そして、これが死を越えた、その先にある「真の希望」であります。
 「永遠の命」を与えるために、神様は何をしてくださったのでしょうか。神様の御子イエス・キリストをおつかわしになってくださったのであります。そして、御子イエス・キリストを惜しむことなく死に渡し、私達の罪を赦して下さったのであります。
 このキリストは、今、死を越えて、私達と共に生きて下さいます。このキリストに結ばれて生きるところで、私達も又、罪が赦されて、神様の子どもとして、神様の国で、神様と共に永遠に生きることが赦されています。
 惜しむことなく御子を死に渡された方が、日々、私達に愛を注ぎ続けてくださる。死を越えられたキリストが、いつも、共に生きていてくださる。そのところで、私達は、いつでも、死の先にある真の希望を知り続けることができる。真の希望に立ち帰ることができる。ここに、信仰者であることの深い慰めがあるのです。そして、この慰めに支えられながら、私達は、喜びの日々、忍耐の日々へと押し出されていくのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:29| 日記