2018年11月05日

2018年11月4日 主日礼拝説教「もてなしの心」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章13節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章13節の御言葉であります。改めてお読みします。「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」
 「聖なる者たち」とは、一体誰のことでしょうか。「特別な誰かのこと」でしょうか。それは違います。元々、「聖なる」という言葉は、「神様に属する」という意味があります。あるいは、「神様のもの」という意味もあります。
 つまり、主イエス・キリストを通して、「神様のものとされた人」、これが「聖なる者たち」という言葉の意味です。即ち、その意味で申し上げるならば、キリスト者全てが「聖なる者たち」となります。
 人間には、ぬぐい去れない罪や汚れがあるかもしれません。到底、「聖なる者」とは言えないのが、私達の現実なのかもしれません。
 しかし、主イエス・キリストの命を頂き、主イエス・キリストと一つにされた私達は、「聖なる者」「神様に属する者」と呼ばれるのであります。ここにまず、大きな幸いがあると言えるのです。
 「聖なる者」になるということ。これは決して、この地上で豊かに生きられる、ということではありません。「聖なる者」だから、経済的にも、精神的にも満たされている。そうとも限りません。つまり、この聖句にもありますように、「聖なる者たち」にも時には「貧しさ」があるのです。
 では、「貧しさ」とは何でしょうか。これは、決して、「経済的な貧しさ」だけではありません。心が飢え乾くこと。これもまた、貧しさであります。聖なる者だとしても、心が飢え乾くことがある。心が貧しくなることがある。神様の救いが見出せず、心が飢え乾くこともある。聖なる者だからといって、完全な人になるのではないということです。沢山の弱さや痛みを抱えながら、悩みや不安を抱えながらも、この世を生きる。そのところに、私達の姿もあるのであります。そして、それで良いのです。
 今朝の御言葉には、「旅人」という言葉も用いられています。「聖なる者」とは、正に「旅人」なのであります。同じように、この私達が「旅人」なのであります。
 つまり、信仰があるから安定した人生が得られるということではないということです。聖なる者だから安心が保証されるということでもない。むしろ、信仰を頂き、聖なる者とされた人には、荒れ野のような旅路が備えられているのであります。
 その旅路は、楽な旅路ではないかもしれません。上り坂もあれば、下り坂もある。飢えや渇きもある。恐れや不安もある。疲れ切り、躓き、足が止まってしまうこともあるかもしれません。それが、聖なる者なのです。それが、旅人である私達なのであります。そして、それで良いのです。いや、むしろ、信仰生活とは、そういうものなのであります
 私達は皆、聖なる者です。私達は皆、旅人です。言うならば、私達は皆、同じ道を歩む旅人です。同じ道を歩む旅人だからこそ、その旅路の厳しさをお互いに知っています。辛いことも、悲しいことも、人それぞれ度合いは違うかもしれません。しかし、信仰生活を歩み抜くことの大変さは、共に分かち合えるはずであります。私達は、同じ道を行く仲間だからであります。
 何か特別なことをしろとは言われていません。ここで言われている「助ける」という言葉は、「分かち合う」とか「共に歩む」という意味でもあります。同じ道を歩む、同じ旅人だからこそ、その旅路の厳しさ、飢えや渇きの辛さは、自分のものとして分かち合える。いや、それを分かち合えるほどの繋がりを築いていく。それが、信仰者の群れであり、そして、それが教会に生きる私達の姿なのだと、今朝の御言葉は示しているのであります。
 今朝の御言葉には、次のようにも記されています。「もてなすよう努めなさい」。これは、もう少し原文に近い言葉で言うならば、「追いかけて迎えなさい」という意味です。待っているだけではダメなのです。この私自身から歩み寄るのであります。その一人一人の痛みや苦しみの中に、自らが飛び込んでいく。そして、その人を快く迎えていく。そして、そこで飢えや渇きを共に分かち合っていく。そのところに、私達の信仰者としての豊かな繋がりがあることを、改めて心に留めていくものでありたいと思うのであります。
 特別に何かをしなければいけないということではありません。飢えや渇きを何とか満たしてあげようなど思わなくても良いわけです。
 なぜなら、私達を本当に癒すのは、イエス様だからであります。私達は、本当の癒し主が、イエス様であることを共に知っているのであります。誰よりも早く、私達の元に来て、私達の傷を癒してくださる。飢えや渇きを満たしてくださる。また、歩み出す力を与えてくださる。その救い主の存在を、私達は、共に知っている。私達は、共に痛みを分かち合うこともできますが、同時に、共に、主のもてなしの心に触れて、共に恵みに立ち帰ることも出来るのであります。そして、何よりも、共に、あの御言葉に耳を傾けることができるのではないでしょうか。「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである。」
 私達は同じ旅人です。しかし、この旅は、目的地のない旅ではありません。私達が向かっているのは、神の国です。かつて、エジプトの奴隷から解放されたイスラエルのように、罪の奴隷から解放された私達もまた、神の国へと荒れ野を旅するのです。
 しかし、それは、孤立した歩みではありません。必要なものが備えられ、御言葉が備えられ、共に痛みを分かち合える仲間と共に歩む旅です。そして、いつも神様が共に生き、昼は雲の柱、夜は火の柱の如く、私達を導いてくださる。その幸いを噛みしめる歩みであります。
 心が貧しく、飢え乾くこともあるでしょう。しかし、私達の痛みを共に担える仲間がいて、その苦しみに寄り添うように、「大丈夫、天の国はあなたのものだ」と語り続けるイエス様が共にいてくださる。最高のもてなしを受けて、再び旅を続けることができる。その幸いを心に深く留めつつ、今日も又、共に歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:08| 日記