2018年11月26日

2018年11月25日 主日礼拝説教「共に立てる場所がある」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章15節〜16節
 
 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章15節から16節の御言葉であります。改めて御言葉をお読みします。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」
 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」とても、有名な御言葉であると思います。愛唱聖句にしておられる方もいるかもしれません。
 しかし、私達は、この御言葉の「難しさ」も知っています。「喜ぶ人と共に喜ぶ」こと。「泣く人と共に泣く」こと。これが、決して簡単な教えではない、ということを、私達は、実生活の中で、よく知っているのではないかと思うのです。
 繰り返しになりますが、「喜ぶ人と共に喜ぶ」こと。これは決して簡単なことではありません。星野富弘さんという画家がいます。学校の授業中に事故を起こし、体が不自由になった方です。様々な葛藤を繰り返しながら、最後には、口で絵を描き、素晴らしい詩も残して来られました。この方も、聖書に親しまれたキリスト者であります。
 その彼の闘病中、同じように体が不自由な子どもと出会い、意気投合したそうです。幸いなことに、その子どもは、回復していきますが、その姿を見て、素直に、喜べない自分がいるのだと、星野さんは言ったそうです。そして、そこに人間の愚かさ、弱さ、醜さを見たのだと言われました。
 星野さんの例は、極端な例かもしれませんが、「喜ぶ人と共に喜ぶ」ということ。「喜びを完全に共有する」ということは、やはり決して簡単なことではないようであります。
 「共に泣くこと」。これも、決して簡単なことではありません。人の不幸に触れ、「かわいそうに思う」「悲しい気持ちになる」。そのようなことはあるかもしれません。しかし、そこで「悲しむ人と完全に一つになって悲しむ」ということは、中々、難しいことであります。いや、その人自身にならなければ、到底不可能なことなのかもしれません。
 このように、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という教えは、難しい教えです。人間は価値観が違います。喜びも悲しみも、人ぞれぞれ価値観が違います。その違いがある以上、その人と同じ所に立って、喜んだり、泣いたり、正に、その人と一つになって共に生きたりすることなど、実態として到底不可能なことなのであります。
 しかし、今朝の御言葉は、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と教えています。出来ないことを教えているのです。
 つまり、私達は、「違い」を越えて、完全に一つになって立てる場所があるのだということを、今朝の聖書は、示しているのではないかと思うのです。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。そうしなければ、救われません」と脅しているのではなくて、私達キリスト者が、私達の思いを越えて、表面的な意味ではなく、完全に一つとなり、共に生き、共に立つことができる所がある。そのように、今朝の御言葉は教えているのだろうと思うのです。
 では、そのような場所は、どこにあるのでしょうか。それが16節の御言葉になります。「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」
 ここには、積極的な奨めが二つあります。「互いに思いを一つにすること」「身分の低い人々と交わること」です。消極的な奨めは、「高ぶらないこと、うぬぼれないこと」です。
 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」こと。即ち、「共に一つになって生きること」。ここで大切なことは、全ての人が「違いを越えて同じ所に立つ」ということです。誰かが、高い所にいたり、低い所にいてはいけないのです。全ての人が同じ所にいることが大切です。
 では、全ての人が、共に立てる所とはどこでしょうか。それが、「一番低い所」です。全ての人が、一番低い所に立つのです。その一番、低い所でこそ、私達は共に生きることができるのであります。最も、低い所に共に立つ。そこが、共に生きられる場所なのです。
 しかし、気をつけなければいけないことがあります。高い所にいる人が、仕方がないから低い所に行くのではありません。あるいは、低いところに行ってあげるというのも違います。それでは、本当の意味で、共に立っているのとは違います。どこかに、自分を高く上げていることと同じでありましょう。謙虚さも、間違えれば、傲慢になるのであります。
 「身分の低い人々と交わりなさい」という言葉があります。これは、間違った訳です。この間違った訳のままいくと、この社会の中で、立場の低い人々と共に交わりましょう、という教えになるかもしれません。そのような生き方も大切ですが、この言葉の本意とは少しずれてしまいます。
 この訳の「人々」という言葉は、本来は、存在しない言葉です。また、「交わる」という言葉も、「引きずられていく、引っ張られて降ろされていく」という意味を含んでいます。つまり、本当の訳で申し上げるならば、「低い所へと引き下ろされていくこと」という意味なのです。要するに、私達の思いとは裏腹に、キリスト者は、皆、低い所へと引きずり降ろされていくのだ、ということが、ここから示されているのであります。だから、低い所に行ってあげるということではないのです。
 低い所へと、この私を引き下ろしていく。誰が、この私を引き下ろすのでしょうか。実は、主イエス・キリストなのです。主イエス・キリストは、神の御子でありながら、天から降り、そして、私達罪人の代表となって十字架に架かったのであります。そして、陰府に降られた。私達の救い主こそ、正に、最も低い所に立たれた救い主なのであります。そして、今も、共に生きて、最も低き所を生きておられるのであります。
 その救い主と、私達が一つなのであります。最も低いところに生きられる御方と、私達は共に生きるのであります。私達が、キリストと共に生き、キリストが私達と共に生きるところ。実は、そこが、最も低き所であり、同時に、私達がお互いに思いを一つにし、共に立つことができる、ただ一つの場所なのだということなのであります。
 私達は、皆、違う人間です。価値観が違います。社会的な立場も違うかもしれません。この地上においては、高いとか低いとかランクがつけられてしまうかもしれません。もし、その社会の在り方に従うならば、恐らく、私達が、共に生きるということは、まず不可能であります。
 しかし、キリストと結ばれ、キリストと一つにされ、キリストと共に歩んでいく人生は、皆が、同じ所に立っている人生であります。老いも若きも、皆が、キリストと結ばれた一つの枝として、同じ所に立つことができる。共に救いを喜び、共に信仰生活の苦しみを分かち合うことができる。同じ恵みを味わい、同じ痛みを負うことができる。最も低きところにキリストがいてくださり、そのところにあって、私達もキリストと共に、仲間と共に生きる者とされるのであります。
 正に信仰者は、どのような立場や違いがあっても、一人ではないということです。キリストが共にいる。仲間も共にいる。共にあることを感謝しつつ、歩み続ける群れでありたいと思います。
 今朝の礼拝は、終末主日礼拝です。教会の暦で言うならば、今日が、一年で最後の日曜日となります。そして、来週から、救い主の誕生を待ち望むアドベントです。主イエス・キリストが、私達の世界の最も低き所に降られた救い主であることを、改めて心に馳せつつ、今、正に、私達もキリストと共に、最も低きところで、一つの群れをなしている、神様の家族であることを、心に改めて刻みつけつつ、そこから、共に歩んでいく者でありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:14| 日記