2018年12月04日

2018年12月2日 主日礼拝説教「悪に悪を返さない」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙12章17節〜18節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙12章17節から18節の御言葉であります。改めて御言葉に聴いてみたいと思います。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」
 クリスチャンであるからといって、全ての人に愛されるとは限りません。いや、クリスチャンだからこそ、人々との間に価値観のずれが生じ、衝突を経験することもあるかもしれません。あるいは、与えられた信仰が否定されることもあれば、この世の争いに巻き込まれてしまうこともあります。
 信仰者は、決して、神様とだけ関わるわけではありません。神様と人とに関わる存在です。しかし、神様に対しても、人に対しても、その関係が、いつでも良好であるとは限らないものです。衝突することもあれば、破滅することもあります。この世に憎まれ、苦しめられることもあります。神様のものでありながら、この世のものに苦しめられることは、信仰者では、いつでも起こり得るものでありましょう。
 しかし、このような、私達の現実を深く踏まえた上で、今朝の御言葉は、驚くべきことを教えているのであります。「悪に悪を返すな」「善を行うように心がけよ」「全ての人と平和に暮らしなさい」。
 つまり、私達信仰者に望まれた生き方とは、私達の正義で、悪をなぎ倒し、勝利を勝ち取ることではないということです。悪に立ち向かい、悪を倒すことが、私達の生き方なのではなく、自分自身の側から、自分の思いや心の武器を捨てて、相手と向き合っていくことなのだということになるのです。これは、大げさに言うならば、「自分を捨てろ」と言われているようなものなのかもしれません。
 誰でも、自分自身の内側に、自分の意志や思いというものを強く持っているものです。それを曲げたくないと思うこともあれば、それを捨てたくないと思うこともある。いや、むしろ、その自分の思いをもって、相手に勝利し、自分の正しさを証明したいとまで思うこともあるかもしれない。言うならば、自分の中に、自分が作り上げた、自分そっくりの絶対者や王様が生きていて、他者に勝利することを望んでいるのかもしれません。但し、これもまた、私達が、自らを省みていくならば、私達の現実なのだと言えます。いや、人間の自然な姿なのだと言えるのかもしれません。
 つまり、今朝の御言葉に従って生きるとするならば、それは、自分自身が内側から砕かれていくということが、とても必要なことになるのだろうと思います。言い方を変えるならば、日々、新たにされて生きるということ。そこからまず始められていくのだろうと思うのです。
 さて、このような難しい御言葉に対して、私達の救い主であるイエス様は、どのようにして生きたのでしょうか。まずは、主イエス・キリスト御自身の姿に、思いを向け直したいと思います。新約聖書のペトロの手紙一2章21節から25節の御言葉をお読みします。新約聖書431頁です。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」
 主イエス・キリストは、私達の罪を担って、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、十字架にかかって死んで行かれたのであります。そのお受けになった傷によって、私達は癒され、罪が赦され、神様の子どもとなったのであります。
 そして、大切なことは、私達が、神様の子どもとなったのは、私達の罪が赦されるためであると共に、私達も又、キリストの足跡に続いて歩んでいく為なのだと言われているのであります。私達が、悪に悪を返さない生き方をするために、まず、大事なことは、先だって、そのように生きてくださった、主イエス・キリストの十字架を見上げるところから始めなければいけない。いや、そのような、救い主へと立ち帰って行くところにこそ、悪に悪を返すことなく、善に生きる私達の姿が作り上げられていくのだと言えるのであります。
 私達がすべきことは、何か特別なことではありません。私達がすべきことは、キリストの十字架を見上げ、キリストが、私達のために何をしてくださっのか、という原点に立ち続けて行くこと。そのところから、悪循環を断ちきる、新しい道へと歩みだせるのだろうと思うのです。
 しかし、私達がそのように生きたからといって、悪が、悪であることを辞めるはずはありません。むしろ、それを利用し、より強く、私達を苦しめてくることもあるだろうと思います。しかし、今朝の御言葉では、次のように語られています。「せめてあながたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と。つまり、私達の側だけは、平和を思いながら生きよと言われるのです。相手に、平和であることを求めるのではなく、わたしたちの側から、平和を実現していく。
 しかし、それは、私達が思う平和ではなく、主イエス・キリストの十字架によって、神様が、キリストを通して実現してくださった平和なのだということ。そのことを、改めて心に留めつつ、私達は、信仰生活をすすめていくものでありたいのであります。
 今朝、私達は、待降節第一主日礼拝を捧げています。主イエス・キリストの誕生を記念するクリスマス。そのクリスマスまでの四週間に入ります。主イエス・キリストが、私達の救いのためにお生まれになった。その救い主は、ののしられても、ののしり返さず、悪に悪を返すことのない救い主として、この世にお生まれになられた。そして、実は、そのように生きることで、救いの勝利を収められた。そうなんです。私達は、悪に悪で返さないことによって、この世では敗北者です。
 しかし、神様の目には、眞の勝利者なのです。そして、最後の最後には、神様の子どもとして、神の国で、主の栄光に包まれて生きることがゆるされているのであります。本当の勝利は、最後の最後に主によって決められるのです。そのことを、改めて、心に留めつつ、この時を過ごしていきたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:18| 日記