2018年12月17日

2018年12月16日 主日礼拝説教「真の支配者なる神」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙13章1節〜7節
 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙13章1節から7節の御言葉であります。
 ここで語られていることはなんでしょうか。簡単に申し上げるならば、1節の御言葉です。「人は皆、上に立つ権威に従うべき」であるということであります。
 「上に立つ権威」とは何でしょうか。それは、3節にもありますように、「支配者」のことであり、「権威者」のことであります。更に具体的に申し上げるならば、7節にもありますように、私達が税金を払っている国家権力のことであります。つまり、パウロは、ここで「国家権力に従うべき」であると記していることになるのであります。
 私達は、キリスト者であり、信仰者です。私達の生活の中心には、神様がいます。信仰生活は、その神様の権威に従うことであります。私達は、そのような神様の権威と国家権力の支配が、決して、相容れることのない矛盾対立した関係であることを、よく知っています。
 パウロの時代も同じです。パウロも、国家権力によって迫害を受けた一人です。ローマの教会も、国家権力に迫害を受けていたかもしれません。かつても、今も、神様の支配と国家権力は、矛盾対立するものだということを知っています。いや、それが一つに迎合されることなど、あってはいけないことだろうと思うところに、私達の価値観があるのかもしれません。
 しかし、パウロは、記しています。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と。何故でしょうか。「今ある権威はすべて神によって立てられたものだから」であります。
 つまり、この世界で、本当の支配者は、人ではないということです。この世界の真の支配者は、神様だけなのだということであります。この世の支配者は、神様と人とに仕えるために、神様が立てられた。神様が、立てられたのであるならば、勿論、神様が倒されることもある。言うならば、この世は、全て、神様の支配の中に置かれているのだということが、ここで語られていることの本筋なのであります。
 決して、この世の権力が、神様の権威を帯びているということではないのです。王様が神様になるのではない。神様に仕え、人に平和を与えるために、神様が、権威者を立てるのであります。あくまでも、この世界の真の支配者は、神様なのだというところから、この国家権力を見つめ直しているのであります。
 しかし、どうでしょうか。この世界の現実を見つめてみましょう。この世の権力者が、神に仕えている、とは言えないのが事実であります。人に仕えることよりも、人を抑えつけ、自由を奪うこともあるのが、この世界の現実です。
 パウロの時代も同じです。教会が迫害されているのです。自由が奪われているのです。神に仕えているはずの権威者が、この私を苦しめている。あの弱者たちを抑えつけている。到底、そこに神の支配があるとは思えない。それが、私達の思うところではないかと思うのです。
 しかし、ここで、私達は、改めて、主イエス・キリストの十字架の出来事に思いを馳せていきたいと思います。ヨハネによる福音書19章10節以下の御言葉をお読みします。新約聖書206頁です。「そこでピラトは言った。『わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。』イエスは答えられた。『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。』」
 主イエス・キリストが、正に、この世の権力によって、迫害をされたのであります。ピラトは、主イエスを十字架に架けて殺すことも、また、釈放することも出来る権威者であります。
 しかし、ピラトが、主イエスを十字架に架けるにしても、その権限は、ピラトから生まれる権威ではなく、神が立て、神の支配の中で行われる出来事なのだということなのであります。そして、神様の支配とは、神様の救いの支配なのであります。ピラトは、神様の御支配の中で、キリストを十字架に架けたことになります。しかし、そのことを通して、実は、神様の救いの支配が実現したのであります。
 パウロが、見つめている世界とは、このような世界なのであります。この世の権力は、目に見えるところでは、神に逆らい、信仰者を迫害し、愛や自由を奪うものになっているかもしれません。いや、現にそういうことが、主イエス御自身に対しても、起こったのであります。
 しかし、正に、そのような、この世の悲惨さの只中にこそ、神様の御支配がある。神様の御心がある。この私達を、最後の最後には、救いへと至らしめる、神様の御意志がある。 この世の権力に反対をし、この世の権力から革命を起こすことは、決して、間違ったことだけではありません。但し、そこで、私達が、深く見つめ直さなければいけないことは、この絶望的な、この世の権力の中にも、それを越えたところにある、神様の御支配と御意志があるのだということであります。それが、忘れ去られてはいけないのだということなのであります。この世の権力が、如何に強いものであったとしても、神様の支配が奪われてはいないという、本当の現実を思い起こすことが大切なのであります。正に、そこに、目を向けさせるために、今朝の御言葉が記されていくのでありましょう。そして、その視点に重点を置きながら、国家の権威と向き合っていく。そして、国民としてなすべき責任を果たしていくのだということなのであります。
 「上に立つ権威に従う」とは、何でしょうか。それは、国家権力の支配、命令にどんなことでも絶対に服従しなければならないということではありません。神様に従うことをやめて、国家権力に従うのではないのです。上に立つ権威のさらに上に、神様の権威と御支配があることを見つめながら、国家権力と向き合うのです。
 つまり、それは、権力に対して、無批判に迎合することではありません。国家の在り方、権力の在り方について、それが、本当に神に仕えるものとなるために批判し、意見を述べ、また、行動を起こすことも大切です。いや、むしろ、そこにこそ、キリスト者である私達の責任があるのだと思います。
 今朝の御言葉を読むと、権威者は、人間の悪を抑制し、善を奨励し、平和を実現させるものであると記されています。ここに本来あるべき権威者の姿、国家の姿があるのだと、聖書は示しています。つまり、聖書は、そもそも、神様の御支配の中に、権威者があることを認めています。しかし、同時に、私達は、そのような聖書と信仰に基づく、国家の在り方が実現されていくことを願いつつ、キリスト者の立場から共に、この社会に対して、行動や意見を述べていく。そのキリスト者としての責任を果たすものでありたいのであります。
 そして、主イエス・キリストは、この世の権力者が、神に逆らう現実の中で、誕生し、十字架に架けられたことを覚え、その悲惨な世界の中で、救いの光をもたらされたことに思いを馳せながら、真の支配者なる神様を見つめつつ、今ある現実を共に歩み抜くものでありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:15| 日記