2018年12月24日

2018年12月23日 主日礼拝説教「罪人の中の救い主」須賀 工 牧師

聖書:マタイによる福音書3章13節〜17節

 今朝、私達は、クリスマス礼拝を捧げています。私達の救い主、主イエス・キリストの御降誕を記念する礼拝を共に捧げたいと思います。
 クリスマスにおいて、大切な事は何でしょうか。それは、クリスマスの意味を知るということです。勿論、クリスマスの歴史について知ることも大切です。しかし、それよりも大切なことは、クリスマスの意味を知ることです。つまり、救い主が、何の為にお生まれになったのか。その意味に思いを馳せていくこと。これが、クリスマスにおいて、大切な事の一つであると思います。
 それでは、主イエス・キリストは、何の為にお生まれになったのでしょうか。生活の豊かさを約束するためでしょうか。あるいは、この世の権力や悪に逆らい、正義のために戦う為なのでしょうか。あるいは、この私の期待に応えるためなのでしょうか。
 もしかすると、私達は、私達の内に、このような理想的な救い主の姿を作り上げているかもしれません。
 今朝の御言葉には、「洗礼者ヨハネ」という人物が登場します。この洗礼者ヨハネという人にも、理想的な救い主の姿があったようです。福音書を読み進めていくと、どうやら、洗礼者ヨハネは、救い主が、この世の悪に対して正しい裁きをする存在。そのような存在であると考えていた様子が描かれています。
 このように、洗礼者ヨハネですら、救い主のイメージを持っていた。どんな人間であろうとも、救い主は、こういう姿だ。こういう御方だ。こういう御方でなければいけない。そういうイメージを作り上げているだろうと思うのであります。
 それでは、本当の意味で、救い主とは、どのような存在なのか。どのような存在として、この世に与えられたのか。私達の思いではなく、神様の御心は、何であるのか。そこに改めて視点を向け直していきたいと思います。
 今朝の御言葉によると、主イエス・キリストは、洗礼をお受けになられたようであります。「洗礼」とは何でしょうか。それは、一言で申し上げるならば「清め」です。体と心を清めて、神様に立ち帰ること。それが、「洗礼」であります。
 つまり、「洗礼」の対象者とは、「心が汚れた罪人」ということになります。その罪人が清められ、神様のもとに立ち帰り、新しく生き直すことができる。更に申し上げるならば、古い自分が死に、新しく神様の子どもとして生きる。それが、「洗礼」の意味でありましょう。そうであるならば、洗礼を受ける対象者は、罪に満ち、汚れに満ちた存在なのだということなのであります。
 その「洗礼」を、主イエス・キリストがお受けになられたのであります。主イエス・キリストは、神様の御子であります。救い主であります。神様に等しき御方であります。つまり、罪のない、全く清いはずの御方が、「罪人」として「洗礼」をお受けになったのだということが、ここで書かれているのであります。つまり、本来ならば、あり得ない出来事が、ここで起きているのであります。洗礼者ヨハネもまた、そのようなことはあり得ないことなのだと考えていたでありましょう。
 しかし、主イエス・キリストは、洗礼をお受けになられたのであります。罪のないはずの御方が洗礼を受ける意味とは何でしょうか。それは、罪のないはずの御方が、罪を背負われたということであります。
 誰の罪を背負われたのでしょうか。私達の罪の背負われた。私達の罪を背負い、汚れを背負い、そして、死んで新たになる。それが、ここで起きている出来事なのであります。
 そして、ここにこそ、救い主の存在の意味があり、そして、ここにこそ、神様の救いの御心があるのであります。人々の罪を背負い、罪人の代表となって、死んでいく。そのために、主イエス・キリストは、この世界にお生まれになり、この世界で生きて働かれるのであります。
 主イエス・キリストが、洗礼をお受けになられた後、神様の御言葉が語られています。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。神様の愛する御子、神様の御心に適った御方。しかし、神様は、このかけがえないイエス様に、私達の罪を背負わせ、罪人の代表として立てられ、最後の最後には、惜しみなく、十字架に架けられた。そして、身代わりとなって、神の裁きを与えられた。
 ここにこそ、神様の救いの御意志がある。そして、実は、ここにこそ、クリスマスの本当の意味があるのであります。教会には、教会のカレンダーに従って、テーマカラーというものがあります。例えば、主イエス・キリストの御降誕を覚えるアドベントは、青と紫、クリスマスは白です。実は、主イエス・キリストのご苦難を覚える受難節は、アドベントと同じ青と紫。そして、復活を記念するイースターは白なのです。御子イエス・キリストの御降誕に思いを馳せることと、十字架の苦難に思いを馳せることは、切り離せないことなのであります。
 何のために、主イエス・キリストは、お生まれになったのか。十字架に向かうためであります。私達の罪を背負い、汚れを背負い、罪人の代表となって、裁きを受けられるためであります。そのために、お生まれになった。そのために、この世界で生きられた。クリスマスは、正に、十字架の恵みの中でこそ、本当の意味を明らかにするのではないでしょうか。
 このクリスマスの時、このキリストのご苦難を覚えつつ、その救いのために、御子が来られたことを覚えたい。そして、このキリストが、また、この世界に来られることを祈り願いつつ、この時を共に過ごしたい。そのように思う者であります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:35| 日記