2019年01月13日

2019年1月13日 主日礼拝説教「主のものとされる」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙14章1節〜12節

 私達人間にとって、本当の「慰め」とは何でしょうか。あるいは、私達人間にとって、本当の「喜びや幸せ」とは何でしょうか。
 それは、私達が「神様のもの」となることです。どれだけ、沢山のものを持っていても、神様から見放された人生は、空しい人生です。何も持っていなくても、何も出来なくても、あなたが「神様のもの」であるならば、あなたの人生は、慰めと喜びに満ちた人生になります。
 では、私達は、どのようにして、「神様のもの」になるのでしょうか。神様の試験に合格をすれば良いのでしょうか。心も身体も美しくあれば良いのでしょうか。優れた能力や技術があれば良いのでしょうか。
 それは違います。私達は、私達の力では、「神様のもの」になることはできません。なぜなら、人間は、完璧ではないかです。誰一人として、完全な人間はいないからです。良いところもあれば、弱いところもあるのが人間であります。
 では、どのようにして、私達は、「神様のもの」になるのでしょうか。人間には出来ません。しかし、神様ならできます。つまり、神様が、あなたを「神様のもの」へと変えてくださるのであります。人間の弱さ、人間の無力さ、人間の穢れた心。その全てを、イエス様に背負わせ、その代わりに、この私を赦し、この私を清め、そして、「神様のもの」としてくださるのであります。大切なことは、この神様のお働きを、この私の救いとして信じるかどうか。これが大切なことなのであります。
 今、神様は、ここに生きておられます。「あなたの弱さは、全て、私が引き受けたよ。」「あなたの汚れは、全て、イエス様が背負うのだよ。」「あなたはわたしのものなのだ。それを信じて良いのだよ。」今、神様は、ここにいます。そして、あなたに、今、語りかけているのであります。
 「神様のもの」になるって、とても幸せなことです。なぜなら、だれも、何も、この私を縛るものはないからです。私は、「神様のもの」だからです。神様以外に、この私を縛り付けるものは何もないのです。あなたは、あなたで良いということです。あなたは、神様の恵みの中を、神様を見上げながら、自由に、そして、あなたらしく生きたら良いのであります。
 「自分は、自分で良いのだ」と思う時、そこで初めて、私達は、人を裁くことから解放されます。あるいは、人と自分を比べることからも解放される。人と比べて生きることは、苦しいものです。終わりがないからです。
 しかし、神様のものとされて生きる時、神様に愛されていることを知る時、自分自身を心から愛せる者になれる。そして、本当に、今の自分を愛せる時、私達は、他人を裁いたり、他人を傷つけたり、他人と自分を比べることから解放される。つまり、本当の自由を味わいながら生きられる。そのような幸いを味わいながら生きられるのであります。
 「神様のもの」になるって、とても幸せなことです。なぜなら、失敗を恐れなくても良いからです。失敗することは怖いです。失敗して、恥をかくかもしれません。失敗して、誰かに迷惑をかけるかもしれない。失敗して、敵を作ってしまうこともあるかもしれません。
 しかし、あなたが、どのような状態におかれても、「あなたは、わたしのものだ」といってくださる御方がいる。世界中の人間を全部敵に回しても、「わたしは、あなたの味方だよ」「あなたは、わたしのもの」なんだよ、と言ってくださる御方がいる。そこに、私達は、深い慰めを味わうことができるのではないでしょうか。
 私は、今、ここで牧師をしています。しかし、私の人生は、顧みてみるならば、失敗の多い人生であっただろうと思います。沢山、失敗して、沢山、責められ、敵を作り、孤立したこともあります。でも、私は歩き続けています。「わたしは、神様のもの」だからです。神様が、「この私を神様のもの」だと言ってくださるからであります。
 人間は、歩き続けるものです。しかし、人間は、疲れることもあれば、倒れてしまうこともある。しかし、どのような状況、状態に置かれていても、「わたしはあなたのもの」だよって語り続けてくださる御方がいる。そのとき、私達は、立ち上がり、何度でも、歩んで行ける。「神様のもの」にされた人の人生は、そのような力に満ちた人生なのであります。 
 しかし、私達の人生は、いつかは「終わり」を迎えます。人間は、いつかは「死ぬ」からです。人間は、この世に生まれてから、すぐに、「死」に向かって歩み出します。言うならば、人間を縛り付けるのが「死」であります。人間は、皆、「死」の力に支配され、縛られ、そして、苦しむ。それが、人間の現実であります。
 しかし、今朝の御言葉は、このように記されています。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」
 神様は、「私達を神様のもの」としてくださいます。しかし、それは、決して、この地上だけの保証ではありません。あなたが、死を迎える時も、あなたが死んで、この世を去るときも、死が、あなたを縛るのではなく、神様が、あなたを支配しておられる。神様が、あなたを、神様のものとして受け止めていてくださる。正に、死を越えて、永遠の保証が、与えられているのであります。死んで終わるような空しい言葉ではなく、死んでもなお、つよく、私達をとらえる言葉。それが、「私達は主のもの」なのだという言葉。死を越えるほど強い言葉。その言葉が、今、一人一人に対して、主が語りかけている言葉なのであります。
 私達が、神様を私達のものにするのではありません。神様が、あなたを、神様のものとしてくださる。そのために、あなたの心の闇や穢れや弱さを、全て、主イエス・キリストに背負わせ、代わりに、イエス様を裁かれた。私達を、神様のものとするために、御子イエス・キリストを惜しみなく、裁きにかけられた。その大きな恵みの中で、今、私達は、神様のものとされ、神様のものへと招かれている。その深い幸いを、どうぞ、一人一人の心に新たに刻みつけ、新しい日々を歩み出して欲しいと思います。
 恐らく、この礼拝が終わり、それぞれの場所へと押し出されていく中で、ここで語られた言葉のほとんどが、消えてしまうかもしれません。
 しかし、一つだけで良いのです。覚えていてほしいことがあるのです。それは、あなたが、あなたを思うよりも、あなたのことを思っている方がいるのだということです。そして、あなたを救うために、惜しみなく、命すら投げ捨ててしまう御方がいるということです。それほどまでに、あなたのために生き、あなたのために死んでくださる御方がいる。そうであるならば、私達も、主のために生きるものでありたい。主のために、この命を捧げていきたい。このことを少しでも、一人一人の内側に、留めて頂ければと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:01| 日記