2019年01月22日

2018年1月20日 主日礼拝説教「神の国は義と平和と喜び」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙14章13節〜23節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙14章13節から23節の御言葉であります。
 ローマの教会には、大きく分けて二つのグループがありました。一つは、ローマ人のグループです。もう一つは、ユダヤ人のグループです。この二つのグループには、食べ物を巡る信仰的なトラブルがありました。一方は、何でも食べても良いと考えました。それが、ローマ人のグループです。もう一方は、偶像に備えられた肉は、絶対に食べたくないと考えました。それが、ユダヤ人のグループです。
 当時、食肉は、異教の神殿で、お供え用に売られていたようです。そのため、ユダヤ人たちは、その肉には、絶対に手をつけたくなかったのであります。なぜなら、彼らは、律法−神様の掟−に縛られていたからであります。異教のもの、偶像に触れたものは、汚れの象徴だったのであります。
 しかし、この問題は、決して食べ物だけの問題ではありません。キリスト者としての生き方の問題でもあります。一方では、自由に生きられることを主張しました。しかし、もう一方では、ルールに従った厳格な生き方を主張しました。つまり、キリスト者としての生き方を巡って、この両者が、お互いに裁き合い、軽蔑し合っていたのであります。それが、ローマ教会の現実でありました。
 それでは、使徒パウロは、どちらの立場に立っているのでしょうか。パウロは、「自由に生きられる側」に立っているのであります。14節には、次のように書かれています。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。」
 主イエス・キリストによって救われる。その救いは、完全な救いであります。掟に従うことによるのではなく、キリストに結ばれることで救われている。だから、掟から自由になって生きることができる。古い掟に縛られた者としてではなく、キリストという新しい服を着て歩むことができる。古い時代が去り、新しい時代を自由に生きることができる。それが、キリスト者の本来の姿なのであります。
 それでは、パウロは、ユダヤ人の主張を否定しているのでしょうか。15節の御言葉をお読みします。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストは、その兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。」
 パウロは、キリスト者が自由に生きられるのだと語ります。しかし、その自由を押しつけてはいけないのだと、ここで語っている。つまり、自由を押しつけ、兄弟を傷つける。そして、滅ぼしてしまう。そういうことがないように。そのように語っているのではないでしょうか。どれだけ良い主張であったとしても、それが、押しつけられ、相手を縛り付けるものであるならば、そこに愛はないのだということです。
 自由を押しつけられ、汚れたものを無理に食べさせられるのです。確信がないままに、「これで良いのかなぁ」と思いながら、食べたくないものを食べさせられる。これが、本当の自由なのでしょうか。いや、むしろ、それは人に支配され、縛られていることでしかない。そして、そこには、本当の自由や愛はないのだと言うのです。
 では、このような、生き方の違いは、どのようにして、埋めていけるのでしょうか。どのようにして、私達は、「愛に従って生きること」ができるのでしょうか。13節の御言葉には、次のように書かれています。「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」。
 「つまずきとなるもの」とは何でしょうか。それは、この文脈では、自由を主張することです。あるいは、自分が良いと思う自己主張であります。この自己主張を兄弟の前には、置かないようにする。これが、まず大切なのであります。
 では、どうしたら、そのような生き方が出来るのでしょうか。それが、20節の御言葉であります。「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となりました。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。」
 私達は、キリスト者であります。そして、キリストの恵みの中で、自由に生きることが許されています。そして、目の前の人もまた、同じように自由に生きて欲しいと願う。
 しかし、その自由を押しつけることはできない。では、どうしたらよいか。あなたの確信、あなたの主張は、神様の御前で、あなたの心の中に置いておけば良いと言うのです。神様が、それを見つめていてくださるということであります。神様が、あなたの思いや主張をきいてくださる。それで良いのだというのです。あなたの正しさは、神様が知っていてくださる。それで良い。あなたのすべきことは、あなたの自己主張やあなたの思いを心にしまい、目の前の人を受け止めて生きていくこと。自由であるならば、自分の主張を、神様の前で、心にしまい、差し控えていく。そのような自由もあるのだということです。
 自分の思いは、神が知っている。神様だけが、それを受け止めていてくださる。そのことを深く思いつつ、今、目の前にいる隣人を、受け止めて生きていく。そこに本当の自由を生きるキリスト者がいるのではないかと思うのであります。
 自己主張だけの人生は、本当の自由ではないのです。なぜなら、自己主張は、行き過ぎれば、他人を縛りつけ、自分を縛りつけてしまうから。しかし、キリストの恵みの中を行く人は、自分を捨てる自由、自分から解放される自由を得て、生きることができるのであります。
 17節の御言葉をお読みします。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」
 神の国とは何でしょうか。それは、神様が支配するところであります。教会は、神の国の入口とも言われる。教会から始まる神の国は、人間の自己主張によって建っているのではないのであります。神様の御国は、神様の義−即ち、神様の御心−が支配する場所であります。そして、神様の御国は、神様と人、人と人とが、自由に愛し合える場所であります。そして、神様の御国は、死を越えて、苦難の越えて、本当の喜びを知ることができるところであります。
 人間が、人間の主張で支配する場所ではなく、教会から始まる神の国は、神様の御心に支配され、真の平和と喜びがあるところなのであります。教会には、様々な価値観を持つ人間が集められていきます。それもまた、教会の良いところであります。
 しかし、その価値観を押し付けあうところには、本当の意味で、神の国における主にある交わりは生きていないのであります。自分の正しい主張や思いは、神様がよく知っていてくださる。だから、その心を、そっと心に置いておく。そして、違いを受け止め、隣人に自らを受け渡していく。そこに、愛に従う、神の国の民がいる。そのことを覚えたい。 どのような自分であったとしても、どのような彼らであったとしても、その人を神様が、救い出してくださった。その人のために、御子イエス・キリストが死んでくださった。その恵みを思い起こし、その神様の救いの働きを無にするのではなく、むしろ、豊かな恵みとして受け止め、お互いを受け入れあいながら、神の民として、共に歩みを進めるものでありたいと思います。そのことを深く心に留め、主に思いを向け直しつつ、新たに歩み出す者でありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:13| 日記