2019年02月17日

2019年2月17日 主日礼拝説教「成熟した信仰」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙15章14節〜16節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙15章14節〜16節の御言葉であります。
 15節の御言葉からお読みします。「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」。
 「記憶を新たにしてもらう」。これが、この手紙の執筆の理由の一つです−勿論、これだけではありませんが−。ローマの教会は、忘れていることがあったのです。福音が何であるか。信仰が何であるか。救いとは何であるか。罪とは何であるか。この手紙には、それ以外にも、沢山のことが書かれてきました。つまり、忘れていることが沢山あった。見失っていることが沢山あった。理解を間違えている部分が沢山あった。だから、「記憶を新たにしてもらおうと、思い切り書いた」。
 つまり、パウロは、この教会を見捨てていないということであります。正確に申し上げるならば、パウロを通して語られた、神様御自身が、この教会を見捨ててはいないということであります。福音を忘れてしまった。救いを忘れてしまった。福音の理解を誤ってしまった。見放されても良い教会かもしれません。
 しかし、神様は、この教会を見捨てるのではなく、パウロを通して、思い切った御言葉を与えてくださった。それは、何のためでしょうか。この教会の人々を、再び立ち上がらせ、正しい道を歩ませ、そして、信仰を成熟ならしめるためであります。神様は、この教会の人々を見捨てていない。思い切った御言葉によって、新たに生きる者としてくださっているのであります。
 私達も忘れることがあります。見失うことがあります。道を誤ることもある。しかし、神様は、この教会を見捨てることはない。思い切った御言葉をもって、私達に正しい福音を与え、私達に新しい命の息を吹き込み、私達を再び立ち上がらせてくださる。そして、私達を主の目に成熟した人へと作り上げてくださる。そのように信じて良いのであります。 14節の御言葉に戻ります。「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。」
 「できると、わたしは確信しています」と書かれています。つまり、今は、出来ていないのです。今は、まだ、善意もなく、知識もなく、戒め合うことも出来ていないのです。しかし、「出来るのだ」と信じているのです。今は、まだ未熟かもしれない。しかし、あなたがたは成熟した人になれるのだと。あなたがたの信仰は、まだ未熟なのかもしれない。しかし、あなたがたの信仰は、成熟したものへと変えられていくのだ。パウロは、そのように信じているのであります。
 「善意」とは何でしょうか。それは、「心を開く」という意味です。神様と人とを迎える心を持つということであります。「知識」とは何でしょうか。それは、神様の御心を知る知識です。「戒め合う」とは何でしょうか。これは、「正しさを知っている」ということです。心が開かれ、神様の御心を知り、本当の正しさに生きている。言うならば、神様の御心に適った人として生きるということです。そこに、真の成熟さがあるのかもしれません。
 しかし、そのような成熟さをもった人間など、どこにいるのでしょうか。ローマの教会にも、そのような人がいたのでしょうか。いや、むしろ、欠けの多い、間違いの多い、無知な人の方が多いのではないか。正しい人などいないのではないか。そう思わずにはいられないのが事実であります。
 なぜ、パウロは、ここまで言い切ることができるのでしょうか。なぜ、パウロは、ここまで確信をもって言えるのでしょうか。それは、パウロが、神様の可能性を信じているからであります。神様の力、福音の力を信じているからであります。
 ローマの教会の人たちの努力を信じているわけではないのです。神様が、彼らを、成熟した信仰者へと変えてくださることを信じている。だからこそ、ここまで、確信をもって、言い切ることができるのであります。
 そして、彼らが、成熟した信仰者として、再び歩み出していくために、神様は、パウロを通して、思い切って、御言葉を語られるのであります。そして、御言葉をもって、私達を成長させてくださる。成熟した信仰者へと作り上げてくださる。記憶を新たにして、今までの自分から殻を破るように、生まれ変わらせてくださる。そのために、神様が、パウロを用いて、御言葉を思い切り語ってくださるのであります。
 15節の途中から16節の御言葉をお読みします。「それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。」
 なぜ、パウロは、思い切って、この手紙を書くことができたのか。それは、それが、彼に与えられた務めだからであります。彼の務めとは何でしょうか。それは、救いから遠い異邦人のために、キリストに仕え、キリストの補助者として、神と人とをつなぐ祭司でいることです。救いから遠い人が、神様のものへと変えられていく。神様に喜ばれるものへと変えられていく。そのために、パウロは、伝道をし、そして、手紙を書くのであります。
 パウロは、この与えられた務めを通して、全ての人が、神様のものへと変えられていくことを、よく知っていたのかもしれません。罪あるものが、救いから遠い人間が、神様のものへと変えられていく。そのことをよく知っていた。だから、確信することができた。だから、神様を信頼して、思い切り書くことができた。
 何よりも、彼自身が、変えられることの驚きと喜びを、知っている一人なのではないでしょうか。かつては、迫害者であったのです。かつては、キリスト者を迫害したものだったのであります。自分の信仰が成熟したものであると自負し、信仰の薄いクリスチャンを迫害していたのであります。
 しかし、本当は、違った。未熟なのは自分であった。何も分かっていなかったのは、自分だった。キリストと出会って、キリストを知って、その真実を、そこで知ることができた。その恵みの中で、今、自分は、キリストに仕え、神と人とを繋ぐ、キリストの働きの一部にしてもらっている。自分が変えられていく。新たにされていく。神様の赦しと憐れみの光の中で、神様の目に成熟した器へと変えられていく。その喜びを知ることができた。
 だからこそ、ローマの教会の人々も終わりではない。未熟なままでは終わらないことを知っている。御言葉を通して、キリストと出会い、キリストを知り、改めて立ち上がることができる。新たに生き直すことができる。パウロ自身が、変えられていくことの喜びと驚きを知っているからこそ、この手紙を記した。変えることのできる神様を知っているからこそ、思い切り書けたのではないかと思うのであります。
 福音を忘れてしまうことがある。救いを忘れてしまうことがある。道を誤ることもある。失敗することもある。しかし、迫害者を使徒へ変えるキリスト、未熟なものを成熟したものへと変えてくださるキリストが、今も、思い切り、福音を語り続けてくださる。だから、私達は、何度でも立ち上がり、成熟したものへと変えられていく。私達の弱さよりも、もっと大きな憐れみによって、御言葉を語り続け、私達を日々生まれ変わらせてくださる方が、共に生きておられる。そのことを深く思い出しながら、共に御言葉に聞く、教会生活を歩むものでありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:25| 日記