2019年04月07日

2019年4月7日 主日礼拝説教「あとから来る救い主」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書1章1節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書1章1節の御言葉です。改めてお読みします。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」
 マルコによる福音書1章1節は、本文ではありません。これは、マルコによる福音書全体の標題です。即ち、マルコによる福音書は、全体を通して、「福音」というものの「はじまり」を記していることになります。「福音」は何から始まるのか。どこから始まるのか。それを記すことが、マルコによる福音書全体の目的の一つなのであります。
 では、マルコによる福音書は、全体で何を具体的に記しているのでしょうか。主イエス・キリストの御業、御言葉、教え、そして、十字架の死と復活であります。要約すると、主イエス・キリストについて、全体で記していることになります。つまり、主イエス・キリストこそが、「福音の始まり」なのであります。
 それでは、「福音」という言葉は、何を意味しているのでしょうか。「福」という言葉には、「良い」という意味があります。「音」という言葉には、「音信」という意味があります。つまり、「福音」とは、「良い音信」あるいは「良い知らせ」という意味があるのです。マルコによる福音書は、私達人間にとって「良い知らせ」があるのだと伝えている。そして、その「良い知らせ」が、主イエス・キリストから始まるのだと記しているのです。
 それでは、「良い知らせ」とは何でしょうか。イザヤ書40章3節の御言葉をお読みします。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」
 何の為に、「広い道を通す」のでしょうか。神様が来て、そこを歩まれるためです。実は、これが「福音」であり、「良い知らせ」なのです。
 「良い知らせ」とは何でしょうか。それは、「神様が来てくださる」ということです。神様は、どこか遠くにいるのではない。私達の近くに来てくださり、私達と共に生きてくださる。これが聖書の示す「良い知らせ」「福音」なのであります。
 主イエス・キリストによって始まる「福音」も同じです。神の子イエス・キリストが、この世に来てくださったということ。それは、神様が、私達のもとに来てくださったのだということでもあるのです。荒れ野のような時代、現実、社会の中で、神様は私達を見捨てるのではなく、キリストを通して、私達の近くに来てくださる。これが、「福音」なのであります。
 それでは、神様は「何のために来る」のでしょうか。それは、「世界を取り戻す」ためです。人によって支配され、罪や堕落に満ちた世界を、もう一度、神様の手の中へと取り戻すために、この世界に来られるのです。この世界も、この私達も、もう一度、神様のものとなるために、神様は、この世界に来られるのであります。
 イザヤ書40章10節には、次のような言葉があります。「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。」
 神様は、何のために、この世界に来るのでしょうか。この世界を支配するために来られる。この世界を神様のものとするために、この世界に生きる私達を神様のものとするために、この世界に来てくださる。いや、キリストを通して、既に来てくださった。ここに「福音」があるのです。「良い知らせ」があるのです。
 神様のものとなるということ。それは、神様以外に縛るものは何もないのだということを知ることです。人間は色々なものに縛られています。一番強力な縛りは、死であります。人間は、死に縛られている。
 しかし、神様のものとされるとき、死にも縛られず、神様の恵みの中を自由に生きられるのであります。
 「良い知らせ」とは、神様がくること。そして、神様のものとされること。それは、死を越えて、永遠に神様の手の中に生きられるということです。つまり、この「良い知らせ」は、私達に永遠の命と希望を知らせるものでもあるのです。
 神様が造られた世界、そして私達の命は、罪の故に、神様から離れてしまっていた。それをもう一度、神様のものとするために、神様は、キリストを通して来てくださるのです。私達の命や世界をもう一度、神様のものとするためです。
 そのためには、何が必要でしょうか。罪の問題を解決する必要があるのです。では、罪は、どのようにして解決することができるのでしょうか。罰することでしょうか。それは違います。人を死刑にしても、被害者の心が癒されることはありません。加害者を憎む心が消えるわけではありません。
 だから、罰することによっては、罪を解決することはできません。罪を解決するために必要な事。それは、罪を赦すことしかない。神様は、罰するのではなく、罪の赦しを御心に留めていてくださるのであります。
 では、どのようにして、罪を赦されたのか。それが、十字架の出来事になるのであります。私達の罪を全て、キリストに背負わせ、十字架に架けてくださった。そのキリストの犠牲によって、私達の罪は赦されている。この世界を、私達を、神様のものとするために、御子イエス・キリストを与えてくださった。惜しみなく、十字架に架けてくださった。そのことによって、私達を赦し、再び、神様のものとしてくださる。神様が、キリストを通して、この世界に来てくださるのは、このためなのであります。ここに「良い知らせ」の中身があるのです。
 「はじまり」があるものには、必ず終わりがあります。しかし、福音は違います。マルコによる福音書の最後には、福音は朽ちないのだと書いてあります。今も、神は生きておられるのです。今も、私達の内に、働いておられる。そして、御子イエス・キリストの十字架の死を指し示し、あなたは、わたしのものなのだと語り続けてくださる。神様は、この朽ちることのない福音を通して、今も、朽ちることのない、喜びと希望を与えてくださる。その幸いを深く思いつつ、この受難節の時を改めて歩み出すものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:13| 日記