2019年05月05日

2019年5月5日 主日礼拝説教「荒れ野の中の救い主」須賀 工 牧師

聖書:マルコによる福音書1章12節〜13節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書1章12節から13節の御言葉であります。改めて、御言葉をお読みします。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」
 主イエス・キリストは、洗礼を受けられた後、「荒れ野」に向かいます。
 しかし、主イエス・キリストが、自らすすんで荒れ野に向かった訳ではありません。「霊」が、主イエス・キリストを荒れ野へと送り出したのであります。
 ここに「送り出す」という言葉があります。この言葉は、「放り出す」とか「投げ捨てる」という意味があります。
 つまり、神様は、「愛する御子イエス・キリスト」を「放り出し」「投げ捨てる」ようにして荒れ野へと追いやった。そういうことになるのであります。
 それでは、「荒れ野」とは、どのような場所なのでしょうか。この「荒れ野」という言葉の根源には、「見捨てられた場所」という意味もあります。
 つまり、「神からも人からも見捨てられた場所」、あるいは、「神と人との関係が破れた場所」。それが、「荒れ野」であります。言い方を変えて言うならば、「神様の救いが見出せない世界」。そのようにも言えるかもしれません。また、それ故に、その場所は、サタンや悪が活動する場所。そのようにも言えるだろうと思います。そのような深い絶望の只中へと、神様は、愛する御子イエス・キリストを、投げ捨ててしまうのであります。
 しかし、この「荒れ野」の意味を見つめていく時、そこで、私達は、自らの心の現実を深く思うものでもあります。罪の故に、神様との関係が破れてしまうことがないだろうか。神様の救いを見失い、不安や恐れ、飢えや渇きを経験することがないだろうか。
 洗礼を受けたからと言って、全てが喜びに溢れるだけではありません。主イエスの如く、洗礼を受けた後、神様の愛を確認したにも関わらず、神様の救いが見出せなくなることもあるだろうと思うものであります。
 そのような時にこそ、私達は、正に、荒れ野の中にいる。神と人とから切り離され、孤独を経験している。そのように言えるのだと思うのであります。
 しかし、私達は、ここで、この聖書の御言葉に立ち帰るものでありたいと思います。荒れ野のような現実に生きる時、苦難や困難の中に立たされる時、神様の救いを見失う時、そこに神がいないのではないのであります。いや、むしろ、その絶望の只中の中にこそ、神は、御子をお遣わしになっておられる。愛する御子イエス・キリストを、投げ捨ててまでも、私達の心の荒れた世界の中に、御子イエス・キリストを与えてくださる。その幸いを思い出すものでありたいと思います。
 御子イエス・キリストは、私達の痛みや苦しみを知らない御方ではないのであります。私達の絶望や失望や痛みや苦しみを、御自身の痛みとして知っておられ、そして、そこに生きてくださる。私達の荒れた心の只中に生きていてくださる。その大切なメッセージが、ここから何よりもまず指し示されていくのであります。
 主イエス・キリストが、荒れ野に来ることによって何が起きたのでしょうか。キリストは、「サタンからの誘惑を受け」更に、「野獣と共におられたが、天使たちが仕えていた」。このように聖書には記されています。
 他の福音書によると、主イエス・キリストは、サタンと戦い、勝利された様子が描かれています。また、ここに出てくる「野獣」とは、「私達の命を奪う敵」を表していると言えるでありましょう。即ち、その敵と共に、キリストは生きておられるのであります。また、何よりも、キリストは、荒れ野で一人ではなく、神の使いがそこにいる。即ち、荒れ野の中にあってもなお、神の御手の中に生きることができたのであります。
 主イエス・キリストは、荒れ野に何をもたらしたのでしょうか。それは、「サタンに打ち勝ち」「野獣と共に生きられる」世界。このような世界を切り拓いてくださった。つまり、主イエス・キリストは、荒れ野の中で、サタンに打ち勝ち、神と人とが再び結ばれる世界へと、世界を回復してくださっている。そして、人と人とが、敵対関係を越えて、真実につながり、共に生きることのできる世界を再び作ってくださった。それが、ここから強く指し示されていることなのであります。
 神様は、御子イエス・キリストを、荒れ野へと投げ捨てることによって、神と人、人と人とが、改めて、真実に結ばれて生きられる世界へと、この世界を、あるいは、私達の荒れ果てた心を、新たに造り替えてくださった。その幸いこそが、ここに強く指し示されていることなのであります。
 私達の心が、どれだけ荒れ果てていようとも、そこにキリストは来てくださる。そして、神と人、人と人とを結び上げてくださる。どのような荒れ果てたものであったとしても、私達は、いつでも、主の御手の中で、真の平安を頂きながら、この幸いを味わうものとされているのであります。
 この荒れ野の出来事。これは、ある出来事の先取りであります。「ある出来事」とは何でしょうか。それが、十字架の出来事であります。十字架の出来事とは、どういう出来事なのでしょうか。それは、神が、愛する御子イエス・キリストを、十字架という荒れ野へと投げ捨てていく。そういう出来事でありましょう。十字架の上で、主イエス・キリストは、何を叫ばれたでしょうか。「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのでしょうか」。そのように叫ばれた。十字架にかけられる救い主は、正に、神から見捨てられた救い主。そして、それは、荒れ野に放り出された救い主なのであります。本来ならば、私達が、アダムとエバのように、楽園から追い出され、荒れ野に投げ捨てられるべきであるにもかかわらず、神様は、愛する御子を十字架という名の荒れ野へと追い出された。
 しかし、その出来事を通して、何が実現しているのでしょうか。神と人が真実に繋がり、人と人とが、互いに愛し合える世界が実現している。その幸いが、ここから味わうことができるのであります。
 信仰を持っていても、荒れ野を経験することがあります。いや、主イエスの如き、洗礼を受けた後に、荒れ野が来るかも知れない。あるいは、洗礼を受けたことによって、今まで普通に見えた景色が、荒れ野に変わることもある。その現実の中で、救いを見出せず、罪に押しつぶされ、孤独になるかもしれない。誘惑に晒され、信仰を見失うこともあるかもしれない。神を見失うこともあるかもしれない。
 しかし、その苦難の中で、神は死んでいるわけではありません。むしろ、その苦難の中でこそ、キリストが、私達と共に苦しみを味わいながら、真の救いを実現してくださる。神と人、人と人とが和解する道を実現してくださる。その幸いを、改めて、深く心に留めながら、新しい信仰生活へと共に歩みを進めていくものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:10| 日記