2019年06月02日

2019年6月2日 主日礼拝説教「権威ある新しい教え」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書1章21節〜28節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書1章21節〜28節の御言葉であります。21節の御言葉をお読みします。「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」
 主イエス・キリストが、カファルナウムの会堂で御言葉を語られた。そのような様子が、まず、最初に記されています。
 「カファルナウム」は、ガリラヤの北に位置する地域です。イスラエルの北に位置するのがガリラヤです。そのガリラヤの中で、更に、北に位置する地域。それが、「カファルナウム」であります。
 イスラエルでは、ガリラヤは何と呼ばれていたでしょうか。「異邦人のガリラヤ」であります。正に、「神様の救いが届かない場所」。それがガリラヤであります。そのガリラヤの中でも、更に、北に位置するカファルナウム。言うなれば、到底、「神様の救いを見出せない世界」。その世界の只中に、主イエス・キリストは、まず、来てくださった。そして、神様の御言葉を語ってくださった。到底、救いの見出せない、絶望的な世界の只中に、主イエス・キリストが生きて、働き、そして、御言葉を語り始めてくださった。マルコによる福音書は、その幸いを、まず指し示しているのであります。
 22節の御言葉をお読みします。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
 人々は、主イエス・キリストの教えに驚きます。なぜでしょうか。「律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられた」からであります。
 ここで、マルコによる福音書は、何を語ろうとしているのでしょうか。それは、「律法学者」と「主イエス・キリスト」の教えは、その質が違ったのだということであります。
 そもそも、「律法学者」は何を教えていたのでしょうか。それは、やはり「律法」であります。律法を守ることによって、救いを得られる。そのように語った。言うならば、人間の行いや思いによって、救いを得られるのだと語った。人間を中心に、人間の解釈に基づいて、御言葉を語っていた。それが、律法学者であります。
 それに対して、主イエス・キリストは、何を語ったのでしょうか。それは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語ったはずであります。つまり、主イエス・キリストは、「福音」「救いの支配」「喜び」を語った。
 両者の決定的な違いは何でしょうか。「律法学者」は、人間の行いから救いを語ったのであります。しかし、主イエス・キリストは、神様の行いから救いを語っている。
 即ち、人間が救いを生み出すのではない。「もう既に、神様によって神様の救いの支配が始まっている。」「その救いの喜びは、既に、神様によって目の前に来ている。」「その喜びに心を向け直しましょう。」それが、主イエス・キリストの語る御言葉だったのであります。
 人々は、この教えに「非常に驚いた」と書いてあります。「非常に驚く」という言葉の意味は、「畏れる」という意味です。この言葉は、人が神様の前に立たされた。その時の感情を表した言葉であります。
 即ち、主イエス・キリストを通して、そこで御言葉が語られ、ここに救いが既にあることを知った。ただそれだけではないのであります。ここに神様が生きてくださり、神様が、この私を、救いへと招いている。その幸いを知ることでもあったのであります。
 私達も救いを見出せない時があります。救いを見失う時があります。一生懸命、信仰生活を送っていても、救いが分からなくなることがあります。あるいは、信仰を得るために、救いを得るために、御言葉を一生懸命、学んだりすることがあります。しかし、救いが分からない。救いが見出せない。もう自分はダメなのかな。そう思う時もあるかもしれません。
 しかし、主イエス・キリストは、救いの見出せない世界の只中で、その世界に生きる人々の只中で、神様御自身として、そこで福音を語り続けてくださる。「あなたもう、神様の御前にいるのだ。」「あなたもう、神様の救いの光の中にいるのだ。」「神様の救いの御支配は、あなたの近くにあるのだ。」「その光に気づいてほしい。」「その光に委ねてほしい。」主イエス・キリストは、今も、私達の中心で、救いの喜びを語り続けてくださっているのではないでしょうか。
 23節から24節の御言葉をお読みします。「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ。』」
 主イエス・キリストによって喜びがもたらされた。しかし、同時に、悪霊が騒ぎ出した。その様子がここに記されています。
 この一節を読んで、不思議な点に気づかれたでしょうか。この文脈は、ユダヤ教の会堂の中での出来事です。神様を礼拝する場所。神様と交わる場所です。
 しかし、この悪霊は、既に会堂の中にいたのです。会堂の中に、悪霊の居場所があった。本来ならば、悪霊が拒むはずの場所に、悪霊が居場所を確保していた。それが、この一節からよく分かるのであります。
 そして、主イエス・キリストが来た時、主イエス・キリストが御言葉を語られた時、自分の居場所が奪われると思った。だから、「構わないでくれ。ほっといてくれ。」そのように願ったのであります。
 この会堂で教えていたことは何であったでしょうか。この会堂を支配していたものは何であったでしょうか。「律法」であります。もう少し、言い方を変えるならば、「律法主義」であります。即ち、「人間の行い」、「人間の思想」、「人間の解釈」そして、「人間の思い」であります。
 つまり、どれだけ「良い行い」、「良い言葉」があったとしても、人間が中心となる所では、それが、たとえ会堂であったとしても、悪霊の居場所なのだと、この福音書は語るのであります。
 この悪霊に取りつかれた男の人。これは、私達と本当に無関係なのでしょうか。自分を中心とすることがあります。自分の思いや解釈や経験が中心になることもあります。その時、主イエス・キリストの御言葉に聴くことが辛くなることもあります。
 その時、本当は何が起きているのでしょうか。悪霊が取りついている。悪霊に支配されている。この悪霊の支配は、もしかしたら、私達の教会の現実と私達の内側の現実を強く指し示しているのかもしれません。
 25節から28節をお読みします。「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声を上げて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、そのいうことを聴く。』イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」
 主イエス・キリストは、決して、「悪霊に取りつかれた人」を滅ぼすことはありません。この人を見捨て、滅ぼすことはしないのであります。
 では、何をしたのでしょうか。悪霊の力から、この人を解放してくださった。ここに、真の救い主の御業があるのであります。即ち、主イエス・キリストと共に、悪の支配が終わり、神様の救いの支配が実現する。私達のもつ闇の只中で、主イエス・キリストは、生きて御言葉を語り、そして、神の救いの支配をもたらしてくださる。
 たとえ私達の心が悪に支配されてしまう。そのような現実にあったとしても、その只中で、御言葉を語り、私達を神様の救いで満たしてくださる。そして、悪の力から解放してくださる。そして、改めて、神様の子どもとして、私達を再び迎え入れてくださる。その幸いが、ここで深く指し示されているのであります。
 これは、「権威ある新しい教え」であります。即ち、「律法」の時代が終わり、神様の一方的な救いと憐れみの時代が、主イエス・キリストと共に実現するのであります。今、私達もまた、その救いの光の中に入れられている。
 主イエス・キリストは、御自身の命を惜しみなく、死に渡されるほどに、私達の救いを願っておられるのであります。この救いは、どこか遠くにある救いではなく、今、私達の中心に、キリストが立ち、私達の最も近いところで、実現しているのであります。大事なことは、この救いの光から目を背けないで歩むことでありましょう。
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」悔い改めることは、罪を数えることではありません。救いの光に目を向け直すことです。今、この時、主イエス・キリストは、悪の力から、私達を解放し、神様の民へと改めて招き、導いてくださるのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:19| 日記