2019年06月16日

2019年6月16日 主日礼拝説教「神と再びつながるために」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書1章29節〜34節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書1章29節から34節の御言葉であります。29節から31節の御言葉をお読みします。「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」
 シモンのしゅうとめが、熱を出して寝ていた。そこで、主イエス・キリストは、シモンのしゅうとめを癒された。癒されたしゅうとめは、一同をもてなした。これが、ここに記されている出来事であります。つまり、主イエス・キリストの癒しの御業が、ここに記されているのであります。
 私達は、誰もが、このような救い主の姿を望んでいるのかもしれません。体の痛み、心の痛みを取り去る救い主。病気を癒してくれる救い主。私達は、誰もが、そのような、力に満ちた救い主の姿を望んでいるかもしれません。恐らく、当時の人々もまた、そのような救い主を望んでいただろうと思います。
 しかし、主イエス・キリストは、本当に、私達が望んでいるような、救い主なのでしょうか。そもそも、主イエス・キリストは、何を目的として、この癒しを行われるのでしょうか。これこそが、この聖句の中で、とても重要なことなのであります。
 シモンのしゅうとめの熱が去った。これは大変、驚くべき奇跡です。しかし、この話の中で、一番、強調されているのは、この奇跡がすごいということではありません。
 この奇跡の出来事は、全て、過去に起きた出来事。つまり、過去形によって表現されています。しかし、この文脈の中で、過去形ではなく、まだ継続している事柄として表現された言葉があるのであります。それは、この文章の流れからするならば、違和感を覚える言葉の使い方でもあります。過去の出来事の中に、今もまだ継続している出来事が入り込んでいるのです。そのことによって、この話の強調点を浮き彫りにしているのであります。
 では、その言葉とは、どの言葉なのでしょうか。それは、実は、「もてなした」という言葉なのであります。この「もてなした」という言葉は、「奉仕する、仕える」という意味です。
 そして、この言葉は、過去の言葉ではなく、今も、継続し、完了していない言葉として記されています。
 つまり、このマルコによる福音書が書かれ、そして、読まれている時代に至るまで、継続して、このしゅうとめが、主イエスと人とに「仕えている」のだということが、ここから分かるのであります。つまり、シモンのしゅうとめは、主の弟子の一人として、あるいは、教会の大切な存在として、神と人、キリストと人とに、今も変わることなく、仕え続けているのだということ。それが、ここで強調されているのであります。
 ここで大切なことは、シモンのしゅうとめの病気が癒された、ということではないのであります。この一人の女性、ユダヤの社会では、数に入れられないような立場。そのような立場の人間が、キリストによって救われ、キリストに手を取ってもらい、キリストのものとされ、神と人とに仕えるものへと変えられていった。これが、この聖句において、強調されている、大切な事柄なのであります。
 ただ、癒されたということ。これが重要ではない。一人の人間が、いや、社会の端っこに追いやられたような人間の手を、主イエス・キリストが握ってくださり、キリストのものへと新たに生かしてくださる。これが、主イエス・キリストの宣教・伝道の意味なのであります。即ち、人を癒すことが目的ではなく、その人の手を握り、様々な困難から、その人を解放し、神の子どもとして、新たに生かしてくださる。それが、キリストの癒しの目的なのであります。
 この部分が抜けてしまうと、癒しだけの救い主になってしまう。御利益的な存在になってしまう。しかし、真の救い主は、そこで終わる救い主ではない。本当の目的は、その先にある。その人を、神様の子どもとして、新たに生かしていく。そこにこそ、救い主の本当の姿があるのだということ。そして、そのために、御子イエス・キリストは、御自身の全てを捧げてくださるのだということ。それが、ここから強く表されているのであります。
 32節から34節の御言葉をお読みします。「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」
 安息日が終わり、新しい一日が始まります。そして、主イエス・キリストから癒しを望む人々が、押しかけてきます。恐らく、安息日に、歩き回ることは許されていなかったからであります。
 安息日は、命を喜び日であります。神様の救いを喜ぶ日であります。しかし、素直に喜べない人たちがいたのであります。体を痛め、心を痛め、神に目を向けることの出来ない人々がいた。その一人一人が、救われることを必要としていた。神様の救いの御業を必要としたのであります。
 彼らは、明らかに社会から見捨てられた、端っこの人々であります。病人や悪霊に取り憑かれるということ。それは、神様との交わりから排除される対象であったからであります。
 しかし、主イエス・キリストは、彼らを見捨てることがなかった。彼らをいやしたのであります。この「いやす」という言葉。これも実は、とても特殊な言葉なのであります。この言葉は、「仕える」という意味なのであります。
 この文脈でとても大事なことは何でしょうか。それは、主イエス・キリストが癒しを行ったということではないのです。神様の御子、真の救い主が、人に仕えるために、生きているということであります。人を抑圧する救い主ではない。人を抑えつける救い主ではない。人に仕え、人を愛し、人と触れ合う救い主。それが、主イエス・キリストであり、真の救い主の姿なのだということであります。そして、その真の救い主を通して、全てのものが、神様との関係を回復することができる。そのために、御子イエス・キリストは、見捨てられたような人々にも仕えてくださる。これが、この箇所の伝えるメッセージなのであります。
 主イエス・キリストは、仕える救い主であります。この救い主は、御自身の命を捨ててしまうほどに、私達に仕える救い主であります。そのことを踏まえた上で、改めて34節の御言葉をお読みします。「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にもとを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」
 主イエス・キリストは、悪霊にものを言わせなかった。なぜでしょうか。悪霊がイエスを知っていたからであります。つまり、主イエス・キリストは、御自身が神の御子、救い主であることを人々には知られたくなかった。秘密にしたかったということであります。 なぜでしょうか。それは、人々に誤解を与えたくなかったからであります。もし、今、この状態で、主イエスが救い主であると知られたとするならば、人々は何を思うでしょうか。
 救い主は、病気を癒すだけの救い主になってしまう。悪霊を追い払うだけの救い主になってしまう。その誤解を生みたくなかったからなのであります。悪霊の狙いは、そこにあるのです。人々に誤解を与えること。本当の救い主を見させないこと。これが、悪霊の狙い。しかし、主イエス・キリストは、それを許さなかったのだということなのであります。
 それでは、真の救い主は、どのような救い主なのでしょうか。マルコによる福音書は、その三分の一を受難週の物語で占めています。そして、その受難週の中で、真の救い主が、どういう救い主なのか。それを弟子達に明らかにしています。
 では、本当の救い主とは、どのような救い主なのでしょうか。それは、私達の罪と死のために、十字架に架かり、復活する救い主であります。私達の心の内にある病や闇から、私達を解放し、神と人との関係を回復させる。そのために、御自身の命を惜しみなく、捧げられる。そのような救い主なのであります。
 正に、徹底的に、人の救いのために仕える救い主。それが、本当の救い主なのだということなのであります。ペトロのしゅうとめが癒されたことも、多くの病人たちが癒されたことも、悪霊に取り憑かれた人が、悪霊から解放されたのも、一人一人の人間が、神から排除される病や悪の力から解放され、神の子どもとして、新たに生きるため。神様との関係が破れた人々を、神様のものとするために。そのために、徹底的に、その人に仕える救い主であるということ。癒しの出来事は、そのことの徴なのであります。
 癒しの出来事は、主イエス・キリストが、癒しの達人であることを証するものではないのであります。主イエスは、その癒しを通して、神と人との関係が回復し、神の民として新たに生きるために、御自身の力と命とを捧げる救い主なのだということ。そのことを、証する出来事なのであります。
 主イエス・キリストを通して、神の国が実現します。私達もまた、この世にあって、心が病んでしまうことがある。神に背を向けてしまうことがある。神様との関係が破れてしまうこともある。それは、神の目から見れば、私達もまた、病人なのであります。
 しかし、そのあなたの目の前に、既にキリストは生き、あなたに命を捧げてまでも仕えてくださる。その幸いこそが、ここで強く証されているのであります。その幸いを改めて深く心に留め、私達もまた、感謝と喜びをもって、神と人とに仕える者でありたいと思うのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:50| 日記