2019年07月07日

2019年7月7日 主日礼拝説教「深く憐れむ」須賀 工牧師

聖書 マルコによる福音書1章40節〜45節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書1章40節から45節の御言葉であります。40節の御言葉を、改めてお読みします。「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」
 沢山の人々が、主イエス・キリストを求めています。彼らは、「こうして欲しい」「ああして欲しい」と願っています。自分の願いを押しつけるように、主イエス・キリストを求めているのであります。
 しかし、「重い皮膚病の患者」は、そのような人々とは、少し違いました。この患者は、次のように言います。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と。
 これは何を意味しているのでしょうか。これは、「自分の願い」ではなく、「主イエス・キリストの御心」、「主イエス・キリストの思い」を優先したという意味であります。即ち、真っ先に、「自分の願い」を押しつけたのではなく、何よりもまず、主イエス・キリストの御心を優先したのであります。そこにこそ、この患者と他の人との違いがあると言えるでありましょう。
 そして、ここには特徴的な言葉が、もう一つあります。それは「清める」という言葉です。この人は、「私の体を治して欲しい」とか「私の体を癒して欲しい」とは言わなかったのであります。あくまでも、「御心によって清めて欲しい」と願ったのであります。
 当時、「重い皮膚病」は、「宗教的な穢れ」を意味していました。「重い皮膚病」におかされた人たちは、「穢れた人」とか「罪人」と呼ばれ、神様からも、社会からも見捨てられていました。つまり、ただ、体が苦しいだけではなく、心も苦しくなる病。それが、「重い皮膚病」でありました。
 このような当時の時代背景を踏まえた上で、この人は、このような悲惨な現実の中で「癒されること」よりも、「清められる」ことを願いました。即ち、この人は、体の回復よりも、神様との関係を回復すること。そのことを優先的に考えていたと言えるかもしれません。
 主イエス・キリストの御心を優先し、神様との関係回復を願った。目に見える出来事ではなく、目に見えない回復を望んだ。そのような意味で申し上げるならば、この人は、信仰者として、正解を出した、優等生とも言えるかもしれません。人間が人間の願望を優先する中で、この人だけが、主イエス・キリストの御心を信じた。癒されることだけを願う人々の中で、神様との関係回復を優先した。正に、神様を中心に、この人は、物事を判断し、キリストの前に立つのであります。その意味で申し上げるならば、この人は、正に信仰者としての模範ないし、優等生であると言えるだろうと思うのです。
 しかし、果たして、この人が、優等生であったから、主イエス・キリストは、この人を救ったのでしょうか。この人が正解を出したから、主イエス・キリストは、救いを行われたのでしょうか。それは違うだろうと思います。
 41節から42節をお読みします。「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」
 ここで大切なことは何でしょうか。それは、主イエス・キリストが「深く憐れんで、手を差し伸べ、清めてくださった」ということでありましょう。つまり、この人が、一生懸命願ったからではなく、あるいは、正解を出したからでもなく、更には、優等生であったからでもなく、ただただ、主イエス・キリストの深い憐れみによって、この人は清められ、神様との関係回復を得たのだということ。それが、ここから強調されているのではないでしょうか。
 人間が人間の力によって、救いを勝ち取るのではありません。ただただ、そこでは、主イエス・キリストが、この私の痛みを、御自身の痛みとして引き受けてくださり、憐れみをもって、この私に触れてくださり、御言葉を通して、清めてくださる。救いは、この主イエス・キリストの一方的な憐れみによってのみ、この私の身に実現するのであります。その幸いが、ここから強く語られているのではないでしょうか。
 私達人間は、目に見える救いを望みます。目に見えて、形ある救いを必要とすることがあります。しかし、主イエス・キリストは、一人の人間が、「清められ」「神様との関係を回復する」ことを、御心に留めておられます。その事実は、今朝の御言葉43節からも明確に示されています。43節の御言葉をお読みします。「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『誰にも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
 主イエス・キリストは、まず、この人を祭司の所へと向かわせます。先ほどのレビ記にも記されていますが、当時、「清めの儀式」「清めの宣言」は、祭司の務めでありました。祭司が「清いかどうか」の判断を下す権限があったのであります。つまり、祭司から認められ、清めの儀式をすることによって、始めて、この人は、神の民へと戻ることができる。即ち、神様との関係回復が、そこで始めて実現するのであります。
 つまり、ここで主イエス・キリストが大事にしたことは、この人が「キリストによって清められている」という事実なのであります。キリストによって癒されているということではありません。キリストによって、清められ、神と共に生きられるということ。主イエス・キリストの救いは、あくまでもそこに重点を置いている。そして、その救いを証明するようにと、主イエス・キリストは、望んでおられるのであります。
 しかし、実際には何が起きたのでしょうか。45節の御言葉であります。「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスは、もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいないところにおられた。それでも、人々は、四方からイエスのところに集まって来た。」
 この人は、祭司の所には行かず、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」と聖書は記しています。つまり、この人は、目に見える「出来事」だけを人々に告げただけで、救い主によって、罪も穢れも清められたという真実を証明しなかったのだということであります。
 ここから何が分かるでしょうか。それは、主イエス・キリストの御心を優先しながら、心の奥底では、目に見える、形ある救いにこだわっていたということではないでしょうか。出来事ばかりに心が奪われ、真実から目を背けてしまった。どれだけ、模範的な優等生であったとしても、心の奥底では、形あるものに魅了される。そのような人間の思いが残り続けているのだということであります。聖書は、この人間の心の奥底にある悲惨な現実を、ここで明らかにしているのではないでしょうか。また、このように人間の罪の現実を徹底的に明らかにすることによって、救いの御業が、人間の優秀な行いによって、実現するものではないということをはっきりとさせているのかもしれません。
 更に言うならば、主イエス・キリストもまた、この人間の悲惨さを良くご存じであっただろうと思います。その上で、憐れみをもって、この人の救いのために生きてくださる。正に、人間の罪よりも遙かに大きく、深い愛をもって、主イエス・キリストは、私達の内に臨んで、救いを実現してくださるのであります。
 この治癒物語は、私達の救いは、ただ体が癒されることではなく、神と人とが関係を回復することであることを教えています。そして、その救いは、人間の優秀な生き方や模範的信仰によってではなく、むしろ、人間には限界があることを指し示しつつ、ただ、キリストの憐れみによってのみ、私達は神と結ばれて生きることができるのだ、ということを教えているのであります。
 しかし、今朝の聖書の箇所で重要な部分は、そこだけではなく、最後の部分なのであります。一人の人が清められ、救われると共に、主イエスが、町にいられなくなるのです。これもまた大切なメッセージなのであります。
 かつては、この患者が、町にいられなかったのです。しかし、救われることによって、町に帰ることができた。神の民となることができた。その一方で、主イエス・キリストは、人間の罪の故に、町にいられなくなった。つまり、患者とキリストの立場が、救いの出来事を巡って逆転してしまうのであります。言うならば、患者が神の子となり、神の子が患者になるのであります。一人の人間の救いが実現する背後では、神の民から切り離されていく救い主の姿もあるのです。
 ここにこそ、救い主の受難を中心としたマルコによる福音書のメッセージが込められているのではないかと思うのであります。私達の救いとは、私達と神との関係が回復すること。私達が神の民となることであります。そして、主イエス・キリストは、憐れみによって、その救いを全ての人に与えてくださるのであります。しかし、その背後には、私達に代わって、私達の罪を背負い、神の民から切り離され、神に見捨てられる救い主の姿があるのではないでしょうか。
 その主イエス・キリストは、今も生きておられます。私達の罪よりももっと大きな憐れみをもって、私達に触れ、御言葉によって清めてくださいます。そのキリストは、私達を神の民とするために、神に見捨てられる道を歩んで行かれる御方です。どうか、この時、このキリストの深い愛を、素直に受け取り、感謝をもって、罪赦されたよろこびを、人々の前で証していくものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:36| 日記