2019年09月02日

2019年9月1日 主日礼拝説教「小舟に乗る救い主」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書3章7節〜12節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書3章7節から12節の御言葉であります。7節から8節をお読みします。「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まってきた。」
 主イエス・キリストは、弟子たちと共に湖の方へ立ち去られます。この「立ち去る」という言葉は、「退却する」「逃げる」という意味もあります。
 なぜ、主イエス・キリストは、逃げる必要があったのでしょうか。それは、ファリサイ派の人たちとヘロデ党に命を狙われていたからであります。
 つまり、この聖書箇所では、まず、両極端にいる人間の姿を描いています。一方では、主イエス・キリストを殺したいと願う人たちがいました。しかし、もう一方では、主イエス・キリストに従う大勢の人々がいたのであります。聖書によれば、従った人々は、ユダヤ全土だけではなく、異邦人も含まれています。外見的に言うならば、主イエス・キリストの伝道が成功したとも言えるかもしれません。
 しかし、果たして、この両者は、両極端にいると言えるのか。ファリサイ派の人々と群衆には、本当の違いがあるのか。それが、今朝の御言葉の大切なポイントになります。
 そもそも、なぜ、ファリサイ派の人々やヘロデ党−言い方を変えて申し上げるならば、宗教的指導者と政治的指導者−が、主イエス・キリストを殺したいと思ったのでしょうか。
 それは、自分たちの権威が危機にさらされてしまうからであります。自分たちの正しさや自分たちの立場が危険に陥るからであります。彼らは、主イエス・キリストを、私の主人として迎えることができないのであります。なぜでしょうか。自分が主人でいたいから。自分が、支配者でいたいから。自分が権威者であり続けたいからであります。だから、主イエス・キリストは、彼らにとって、邪魔な存在になるのです。少し視点を変えて言うならば、主イエス・キリストが、自分たちにとって都合の悪い存在だから。だから、殺したいと願うのであります。
 このように、主イエス・キリストに対する殺意は、自分が主人でいたい、という自分中心の心から生まれてくるのだということ。そのことを深く踏まえておきたいと思います。
 それでは、なぜ、群衆は、主イエス・キリストに従い、主イエス・キリストに押し寄せてくるのでしょうか。聖書には、次のように書いてあります。「イエスのしておられることを残らず聞いて」と。
 主イエス・キリストが「していることを残らず聞いて」、押しかけてきたのであります。主イエス・キリストの行為、即ち、主イエス・キリストの癒しの御業を聞いて、押しかけてきたことになります。つまり、群衆は、主イエス・キリストの行為に目を向けている。目に見える奇跡だけに思いを向けている。
 言い方を変えるならば、人間の願望に応えてくれる救い主だから、押し寄せてくるのであります。しかし、これは、この時代だけのことではないだろうと思います。この現代においても、あるいは、私達個人においても、願望は尽きません。生活のこと、健康のこと、命のこと、将来のこと。様々な悩みや願いがあります。そして、その願いに答えてくれる存在を、誰もが願っているかもしれません。
 しかし、このような人間の現実は、何を表しているでしょうか。それは、救い主は、願いを叶える存在だという思いです。自分の願いに応えてくれる救い主だけを望む心であります。逆に言うならば、自分の願いに応えられない救い主は、救い主ではない、ということになります。
 自分の願いに応えてくれる救い主であって欲しい。目に見える豊かさを保障してほしい。そう願う私達は、もしかすると、自分が、神様の主人になっていないでしょうか。自分が主人になって、救い主を従わせているのではないでしょうか。つまり、この群衆も又、自分が主人に立った上で、救い主を見つめている。その意味で申し上げるならば、ファリサイ派と違うとは言い切れないのではないでしょうか。この聖書箇所は、その意味で、救い主は、誰からも理解されることのない救い主だったのだ、ということを明確にしているのであります。
 それでは、このような無理解の人間に対して、主イエス・キリストは何をされるのでしょうか。9節の御言葉をお読みします。「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。」
 主イエス・キリストは、ここで用意された小舟に乗られます。何のためでしょうか。民衆と距離を置くためであります。
 しかし、それだけのためではありません。例えば、4章以下を読みますと、同じように、主イエス・キリストが舟に乗られる姿が描かれています。そこで何をされたのでしょうか。主イエス・キリストは、そこで、民衆に向かって御言葉を語られたのであります。
 恐らく、ここでも同じようなことがなされただろうと推測できます。つまり、主イエス・キリストは、ここで御言葉を通して、人々の信仰の目を開き、救いを得させようとされたのではないでしょうか。目には見えない言葉をもって、主イエス・キリストは、救いを語られたのであります。目に見える、形ある救いでなければ受け入れない、という偽りの信仰ではなく、目には見えないけれど、信仰を通して、キリストを受け入れていく。キリストと一つにされていく。その部分を、主イエス・キリストは重要視されたのであります。目に見えるものだけを受け入れるというのは、偽りの出会いです。目には見えないけれど信じて耳を傾けていくところに、キリストとの真実なる出会いがある。そして、そこに真の信仰による救いがある。主イエス・キリストは、その部分を大切にしておられたのだろうと思うのであります。
 これは、私達においても大切なことでありましょう。教会は、舟であります。決して大きくない教会です。だから、小舟かもしれない。しかし、そこに、主イエス・キリストがいてくださる。そこで、主イエス・キリストが、救いを語り、信仰を起こしてくださる。それが、教会なのであります。そして、今、私達もまた、この御言葉を通して、本当の意味での安息を得ることが許されている。その幸いを深く思うものであるのです。
 しかし、これから、この群衆は、皆、主イエス・キリストを離れていきます。そして、主イエス・キリストを十字架にかけてしまいます。なぜでしょうか。自分の願いに答えない救い主は、邪魔なだけだから。自分の願いに従わない救い主は、いらないから。だから、救い主を十字架にかけてしまう。正に、ファリサイ派の人たちとヘロデ党の人たちを同じ路線に、群衆も立ってしまうのであります。
 このような人間の悲惨な現実の中で、主イエス・キリストを「神の子」と呼ぶ存在があります。それが「汚れた霊」であります。11節の御言葉をお読みします。「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」
 汚れた霊だけは、主イエス・キリストを「神の子」と呼んでいます。しかし、主イエス・キリストは、汚れた霊を沈黙させます。なぜでしょうか。主イエス・キリストを「神の子」と言うのは、汚れた霊の務めではないからであります。私達人間が、主イエスを真の神の子と知ることができるのは、「ここではない」「この時ではない」ということなのであります。
 では、私達は、どこで、いつ、それを知ることができるのでしょうか。それが、十字架の出来事の中で知ることができるのであります。人々の悪意と不信仰によって十字架刑が行われます。しかし、その人間の罪の極みの中でこそ、イエス様が、神様の子どもであり、真の救い主であり、キリストにこそ救いがあることを知ることができる。
 十字架のもとで、ローマの百人隊長は何を語ったでしょうか。「本当に、この人は神の子だった」と語るのであります。十字架に架けられた主イエス・キリストを通して、主イエスが、真の神の子、真の救い主であることを知ることができる。そして、この十字架にこそ、神の救いの御業があることが分かる。主イエス・キリストは、そのことをここで語っておられるのであります。
 私達の罪のために十字架に架けられ、死んで復活された、救い主は、今も生きておられます。そして、小舟である教会の中で、今も、真実の出会いを求めて、あなたに御言葉を語り続けておられます。あなたのために十字架に向かうのだ。あなたの罪を清めるために、あなたの罪を背負って、私は十字架に向かって行くのだ。目に見える救いではないかもしれない。形ある豊かさの保障ではないかもしれない。だからこそ、目には見えない、あなたを永遠に生かす命を与える為に、私は、あなたに語り続けるのだ。これを信じて従って欲しい。
 主イエス・キリストは、今も、生きて、小舟にのって、私達に語り続けてくださるのであります。この恵みを深く心に留め、心の目を開いて、キリストとの真実の出会いを果たしていく日々を歩みたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:35| 日記