2019年09月15日

2019年9月15日 主日礼拝説教「救い主の勝利」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書3章20節〜30節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書3章20節から30節の御言葉であります。今朝の御言葉において、特に強調されている言葉があります。それは「家」という言葉であります。
 例えば、20節には、主イエス・キリストが「家に帰られた」と書かれています。そして、21節には、「身内」という言葉が記されています。これもまた、「家」に関連した言葉と言えるでありましょう。更に、22節には、「ベルゼブル」という言葉が記されています。これは、「悪霊の頭」という意味ですが、本来は、「家の主人」という意味であります。また、25節には、主イエス・キリストの譬え話として「家」という言葉が用いられています。
 このように、今朝の御言葉のポイントは、「家」あるいは「家族」ということであります。私達にとって、本当の家とは何でしょうか。私達が、本当の意味で安息を得られる家とは何でしょうか。そして、その家の主人は、一体誰なのでしょうか。そのことを踏まえた上で、今朝の御言葉に共に聴いてみたいと思います。
 今朝の御言葉を20節から改めてお読みします。「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」
 ここで「家」という言葉が使われています。この家は、誰の家なのでしょうか。主イエス・キリストは、一体、誰の「家」に帰ったのでしょうか。それが、まず、ここから示されています。
 21節を読むと、「身内の人々」が、主イエス・キリストを取り押さえに来る場面が描かれています。つまり、「身内の人々」は、外からやって来て、主イエス・キリストを取り押さえに来たということになります。
 つまり、ここは、主イエス・キリスト御自身の家ではない、ということが分かります。そして、色々な注解書を読みますと、恐らく、弟子のペトロの家ではないかと言われています。つまり、主イエス・キリストは、御自身の家ではなく、弟子の家を、御自身の家とされた、ということになるのです。弟子の家を、御自身の家として定められた、とも言えるかもしれません。
 主イエス・キリストの「家族」とは何でしょうか。それは、血縁的な繋がりではないということであります。主イエス・キリストの家族とは、主の招きに応え、主とともに生きる人々なのであります。そのところに、主イエス・キリストの家族がいるということでありましょう。
 その意味で言うならば、私達もまた、主イエス・キリストの家族に入れられているとも言えるでありましょう。主イエス・キリストの家族の一人として結ばれている。それが、私達が主の弟子であることの幸いなのであります。
 主イエス・キリストは、弟子の家に帰られます。そして、その家に沢山の人々が訪れます。主イエス・キリストを求めて、人々が集まってくるのであります。そして、食事をする暇もなかった。主イエス・キリストを中心にして、生活が変わっていくのであります。そもそも、弟子の家でありますから、家の主人である弟子のもとに集まってくるというのであるならば、よく分かります。しかし、人々は、主イエス・キリストに向かって集まってくるのであります。そして、主イエス・キリストを中心に家の生活が変えられていく。 つまり、この家の中心には、主イエス・キリストが立っておられるのであります。主イエス・キリストの家族になるということ。それは、主イエス・キリストを真の主人として、私の家に迎えるということでもあるのです。
 さて、この出来事は、決して、私達と無関係ではありません。聖書は、時々、人間の心を「家」に譬えることがあります。つまり、今、ここで起きていることは、私達キリスト者の心の中心に、主イエス・キリストが立っていてくださる、ということであります。キリストの家族になるということは、キリストが、この私の心の中に生き続けてくださる、ということなのであります。
 主イエス・キリストが、この私を家族として迎えてくださる。そして、この私の心の中心に留まっていてくださる。ここにキリスト者であることの大きな幸いがあるのです。それでは、この幸いとは、どういう幸いなのか。それは、この後、お話をしたいと思います。
 ひとまず、21節から22節の御言葉をお読みします。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」
 ここには、「身内の人たち」と「律法学者たち」が出てきます。彼らもまた、ある意味において家族であります。「身内の人たち」は、「血肉としての家族」です。「律法学者たち」は、神の国に生きる「共同体としての家族」であります。
 これらの「家族」には共通していることがあります。それは、自分たちが、「家族」の中心であるということです。主イエス・キリストを中心に迎えるのではなく、自分たちが、家族の中心、心の家の中心に立っているということであります。
 そもそも「身内の人たち」は、なぜ、主イエス・キリストを取り押さえに来たのでしょうか。それは、主イエス・キリストの「気が変になっている」と聞いたからであります。主イエスが、「暴走している」と聞いたからであります。つまり、身内の人たちは、何とかして、主イエス・キリストを抑え込みたい、と考えたのであります。
 言い方を変えて申し上げるならば、身内の人たちは、何とかして、自分たちの手の中で、主イエス・キリストをコントロールしなければいけないと考えたことになります。つまり、自分たちが、主イエス・キリストを押さえ込み、コントロールし、支配しなければいけないという思いがある。自分たちが、家の中心に立って、家族の暴走をコントロールする務めがあるのだと考えたのであります。
 この精神状態は、「律法学者たち」も同じです。聖書では、わざわざ「エルサレムから来た律法学者」と言っています。彼らは、最高の宗教的権威をもった人々でありました。彼らは、人々の信仰生活を管理し、監視し、コントロールできると思っている人々でもあります。
 しかし、主イエス・キリストは、その手の中にはいないのです。自分たちの手の外に出てしまっている。だからこそ、何とかして、コントロールしなければいけない。自分たちの手から離れないようにしなければいけない。そう思いながら、主イエス・キリストの暴走を止めるべく、主の御業を否定しているのであります。この人々もまた、自分たちが中心になっているのであります。
 残念なことに、最も主イエス・キリストに近く、最も神に近いはずの両者が、主イエス・キリストを受け入れられないのであります。なぜでしょうか。それは、自分自身が中心だという心が、そこにあるからなのであります。自分が心の中心に立つ時、家の中心に立つ時、本当の主人が見えなくなる。そのような現実がここから示されていくのであります。
 さて、律法学者たちは、自分たちの手から離れていくということが、神から離れることだと本気で信じていただろうと思います。だからこそ、主イエス・キリストが「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言うのであります。
 ここから分かることがあります。それは、律法学者もまた、ここでどのような形であっても、主イエス・キリストが悪霊を追い出している、という事実だけは認めているということであります。
 そのことを踏まえて、23節から27節の御言葉をお読みします。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。『どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の言えに押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。』」
 主イエス・キリストは、ここで、譬え話を語られます。とてもユニークな譬えです。サタンは、本来、平和を乱す存在です。しかし、サタンもまた、内輪もめを望みません。サタンですら、平和を求めているのであります。
 つまり、今、もし、ここで悪霊が追い出されている、ということを認めるならば、そこで闘っているのは、サタンの敵ではないか、ということになります。
 それでは、サタンの敵は、誰でしょうか。神ではないでしょうか。救い主ではないでしょうか。主イエス・キリストは、ここで今、御自身が、真実の救い主として、サタンと闘っておられること、そして、サタンに勝利しておられること。そのことをお示しになっておられるのであります。この真実を、主は、身内の人たち、律法学者たちにお示しになっておられるのです。
 律法学者や身内の人たちは、主イエス・キリストを取り戻そうとします。しかし、ここで本当に起きていることは、そのような彼らを取り戻すためにこそ、主御自身が闘っている。勝利しようとしている。そこに気づいてほしいのであります。そこに思いを向けてほしい。そのように願いながら、主は、このたとえ話を語られたのではないでしょうか。
 それでは、主イエス・キリストが中心となった家族には、何が訪れるのでしょうか。それが28節から29節の御言葉であります。「『はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。』イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。」
 主イエス・キリストに結ばれ、キリストの家族となる時、私達の心の家には何が支配しているのでしょうか。それが、「赦し」なのであります。私達が気づいていない罪も赦されているのであります。罪から解放されているのであります。汚れから清められているのであります。故に、悪の力からも、死の力からも解放されているのであります。そして、そこでこそ、真の安息とくつろぎと自由を得ることができるのであります。そのような大きな恵みが、私達の心の家には満ちるのです。そのような新しい家が、主によって与えられるのであります。
 それでは29節の御言葉を、私達は、どのように理解するのでしょうか。「聖霊を冒涜すること」は、「主イエス・キリストの御業を冒涜すること」でもあります。それは、キリストそのものを否定することになるでありましょう。それは、永遠には赦されないということです。
 それでは、「身内の人たち」、「律法学者」は、永遠に赦されない、ということなのでしょうか。ここで大事なことは、私達の罪の深さであります。そして、十字架の死と復活の重さであります。
 人間は、誰もが、自分が中心になる時がある。キリストを認めることよりも、自分の正しさを認めてしまうことがある。しかし、その罪の深さは、永遠に赦しを得られないほどの罪なのであります。それぐらい、大きく深いところに、私達の罪深さがあるのであります。
 しかし、同時に、ここにこそ、十字架の死と復活の重さがある。ただ、軽々しく、救い主は十字架を背負われたわけではないのです。これほどまでに重い罪を背負って、主は、十字架で死の裁きを受けられたのであります。
 しかし、その主が復活をされた。そして、永遠の裁きではなく、永遠の命を実現してくださった。このキリストが、今、私達の心の中心であり、私達の家族でいてくださる。この御方の計り知れない愛による犠牲によって、私達は、神の国で、神と共に、神の家族として、永遠に赦され、生きることができる。その幸いが、ここから強く指し示されているのです。
 身内の人たちのために、律法学者のために、そして、この私達のために、計り知れないほどの大きな罪を背負い、主は、十字架で死に、そして復活される。あなたのために、この救いが起きるのだ。そのことを、主は、無理解な人々に向けて、そして、今を生きる私達に向けて、語ってくださるのです。その幸いを深く心に留めつつ、新たな日々を歩みたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:59| 日記