2019年10月15日

2019年10月13日 主日礼拝説教「無視への刑罰」山北宣久牧師

聖書:ルカによる福音書16章19節〜31節

 ルカ福音書だけに記されているこの聖書の箇所は、日本基督教団の本日の聖書日課である。この譬え話は三幕ものから成る。〈第一幕〉19節〜21節金持ちと貧しい人の情景。〈第二幕〉舞台が一転して死後の世界が22節〜26節に描かれる。〈第三幕〉この世とかの世、彼岸と此岸をつなぐものが27節以降に描きつつ終幕としている。
 ここで金持ちと貧しい者とは同じ場所にいながら全く接点が見られない。しかし唯一共通していることがある。それは「死」。この死という厳粛な事実、そして神の前に立たされる日が必ず来るということが、人生の問題として浮かび上がる。
 この金持ちは何を間違えたのか。それは唯一のラザロに対して何の関心も示さなかった一事である。全く無視したことが刑罰を身に招いた。愛の反対語は無視、無関心!人は何をしたかで審かれるのみならず、何もしなかったということが審きの対象となることを弁えておかねばならない。なす罪と共に為さざる罪というものがあるのだ。
 ここで金持ちとラザロの間に様々な対称コントラストが見られる。それは金持ちの饒舌とラザロの沈黙である。この金持ちの多弁の中でも一つ心に触れるものがある。それは27節。自分の救いは諦めた。せめて兄弟たちは救って欲しいと申し出た事である。しかし、神の言を聞かぬ者は、奇跡を前にしても信じない、と厳しい拒絶に見舞われる。「溺れる者はワラをもつかむ」のも人間だが「喉元すぎれば熱さを忘れる」のも人間だ。
 ここで金持には名がついてないのに対し、貧しい者には「ラザロ」という固有名詞がついている。これは異例のことだ。ラザロという名前が一つのメッセージだ。エレアザルというヘブル語の短縮形がラザロである。そしてこのエレアザルは7名聖書中に出てくるが、イエスの系図の中にも登場する〈マタイ1章15節〉エレアザル、これは「神は助け給う」という意味だが、この証人としてラザロは登場する。
 そして惨め極まりない貧者ラザロより憐れな人がいる。それが主イエス・キリストである。人に仕え切った報いとしてあなどられ、捨てられ、十字架にて殺された主イエス。しかし、神憶え給う。神は十字架の主を助け、人間の初穂として復活させた。見るがよい、見るがよい、貧しきラザロの中にいるキリストを!
 世界と人間を憶え、助け、死から永遠のいのちへと導かれる主イエスの父なる神にあって無視を超え、関心を世界と人間に向けているのが私達だ。かくして、神の愛にあって、人が生きる人生、人を生かす人生へと歩み、いかされ、死から永遠のいのちへの道を共々辿り行こうではないか。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:43| 日記