2019年11月17日

2019年11月17日 主日礼拝説教「成長する種」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書4章26節〜29節

私達は、次週、終末主日礼拝を迎えます。「終末主日礼拝」とは、どのような礼拝のことなのでしょうか。
 「終末主日」とは、教会の暦−カレンダー−でいう、一年で最後の礼拝のことであります。つまり、「終末主日礼拝」をもって、教会の一年が終わります。そして、次のアドベントをもって、一年の始まりを迎えることになるのです。
 この「終末主日礼拝」を迎えるにあたりまして、私達は、教会の一年の歩みが守られましたことを感謝し、更に、自らの罪を深く悔い改めながら、主イエス・キリストを迎え入れる備えをするものでありたいと思います。
 繰り返しになりますが、私達は、「終末主日」をもって一年を終わります。そして、「アドベント」をもって、一年が始まります。
 それでは、「アドベント」とは何でしょうか。それは、主イエス・キリストの誕生−クリスマス−を待ち望む期間のことでしょうか。それは、確かに間違いではありません。
 しかし、「アドベント」には、もう一つ大切な意味があります。それは、「主イエス・キリストの再臨」、即ち、「終末」「世の終わり」を待ち望む、という意味もあるのです。
 主イエス・キリストが、かつて、この世に降って来られたのです。何の為でしょうか。それは、私達を罪から救うためであります。
 そして、その主イエス・キリストが、再び来て下さるのであります。何の為でしょうか。私達を罪や死か解放し、永遠に神様のものとするためであります。あるいは、永遠なる神様の恵みの支配の中に入れるためであります。
 この救い主の再臨を待ち望むこと。神様の救いと愛と恵みの支配を待ち望むこと。これもまた、いや、これこそが、本来のアドベントの歩み方なのであります。
 以前にも申し上げましたが、キリスト教は、「終末」を信じます。しかし、「終末」は、全ての終わりではありません。その先に、神様の救いと愛と恵みの支配が始まるのであります。正に、主イエス・キリストは、神様の救いと愛と恵みをもって、この世に再臨するのです。「終末」とは、このように、「裁き」の時であると共に、正に、救いの時であり、赦しの時でもあるのであります。
 そして、何よりも大事なことは、私達キリスト者は、もう既に、その恵みの支配の中に入れられているのであります。「終末」が来て、入国審査を経て、神の国に入れるのではありません。私達は、もう既に、神様の救いと愛と恵みの支配の中に生かされて、この地上を歩むことが許されているのです。
 この大きな幸いを、終末に先立って与えるためにこそ、主イエス・キリストは、この世に誕生し、私達の罪や汚れを背負って十字架に架かり、三日後に復活されたのであります。この大きな救いを先立って与えるためにこそ、主イエス・キリストは、私達と神とを和解させる十字架に架かり、永遠の命の徴として復活を成し遂げられたのです。言うならば、十字架の死と復活とは、私達が、神の国に生きるため、あるいは、神様の恵みによる支配に生きるための新しい約束の出来事であり、保証の出来事でもあると言えるのです。だからこそ、私達は、新約聖書、新しい約束の言葉に聞き続けるのです。
 しかし、私達は、時々、この約束に対して心配をすることもあります。「私は、本当に神の国に入れるのだろうか。」「私の家族はどうなるのだろうか。」「終わりの日が来ると大切なものを失ってしまうのではないか。」「自分は、本当の救いの中に入れられているのだろうか。」そのように、不安になったり、心配してしまったりすることがあるかもしれません。
 そして、そのような不安や心配を払拭するようにして、終末の教えに耳を塞いだり、あるいは、一生懸命になって、何とかして、神の国や救いを確信しようと努力する人もいるかもしれません。
 勿論、一生懸命に、聖書を読んだり、祈りを捧げたり、奉仕に身を捧げることは大切なことです。しかし、もし、その熱心さが、自分の救いを確信するためのものであるとするならば、それは、本当に正しい熱意なのでしょうか。
 それは、自分の救いに不安を抱いているだけのことではないでしょうか。あるいは、神様の救いに確信を抱けていないことの裏付けになっていないでしょうか。神様の救いの可能性を見失っていることへの反動になっていないでしょうか。
 今朝、私達に与えられた御言葉には、揺らぐことのない大前提があります。それは、蒔かれた種が、必ず芽をだし、成熟し、そして、収穫されるということであります。つまり、この譬えには、種が枯れ果て、収穫が得られない、ということは考えていないのであります。つまり、種は、必ず実り、必ず収穫され、倉に収められるものなのだということが、この譬え話から示されていることであります。
 そして、この約束の中に生かされているのが、私達なのであります。私達の努力や働きによって、信仰が成熟し、神の倉−神様のもの−に納められるわけではありません。私達の働きをよそにして、私達は、神様の目に相応しい存在へと変えられ、神のものとされるのです。なぜなら、私達の救いのために働くのは、私達ではなく、神様御自身なのであります。私達は、必ず、神様の目に相応しいものへと変えられ、刈り取られ、神様の倉に収められるのであります。
 この神様の救いの約束や確かさを御言葉によって知り、その喜びを大前提にして生きる時、終末は、絶望から喜びに変えられ、「御国よ来たりたまえ」と祈り願うものへと変わっていくのであります。私達の苦しみや悲しみは永遠ではありません。私達の死の苦しみも永遠ではありません。今は、涙多き時かもしれない。しかし、喜びの歌を歌って、収穫を喜べる時が、必ず来るのです。涙と共に出て行く人も、最後の最後には、喜びの歌を歌って収穫の恵みに与れるのであります。
 この終末に向けて、私達は、どのように生きることが大切なのでしょうか。それは、今朝の聖書に従って言うならば、「夜昼、寝起きをする」ということなのであります。
 考えてみれば、不思議なことではないでしょうか。なぜ、主イエス・キリストは、「昼夜」と言わず、「夜昼」と言うのでしょうか。私達は、普通ならば、朝から何かを初めるものです。つまり、自分の行為から一日が始まるのであります。そして、その働きをねぎらいながら、疲れを癒す時間をもって、一日を終えるのであります。「おはよう。行ってきます」から始まり、「お疲れ様。おやすみなさい」で一日が閉じるのです。更に申し上げるならば、私達は、自分の行動から一日を初め、神様に全てを委ねて眠ることで、一日を閉じるのであります。
 しかし、主イエス・キリストは、私達の価値観とは逆のことをここで言うのです。主イエス・キリストだけではなく、すべてのユダヤ人にとっても同じですが、ユダヤ教の世界では、「一日の始まり」は「夕方」からなのです。例えば、創世記1章を見ても分かります。創世記1章にはこう書いてあります。「夕べがあり、朝があった」と。つまり、「新しい日が始まると共に眠る」のであります。「おはようございます。さあ寝ましょう」なのであります。
 更に申し上げるならば、神様に自らを委ねるところから一日が始まり、その支えの中で、生活は始まるのです。自分の働きから始めるのではなく、神様の支え、神様の御業、神様に全てを委ねるところから、一日が始まるのであります。私達キリスト者が生きるべきところは、ここなのではないでしょうか。
 神様の国、神様の恵みの支配、神様の救いの中に生きるためには、あるいは、その幸いを確信して、歩んでいくためには、自分の働きを辞め、神様の働きに身を委ねて生きることから始めることが大事なのであります。自分の口を閉じ、心の目を閉じ、神様の御言葉だけに聴き、神様の御業だけに目を向けて、全てを委ねて生きていく。その恵みに委ね、その恵みに支えられながら、今日、この一瞬一瞬を生きていく。自分が、既に恵みの支配の中に入れられていることを喜び、その約束に全てを委ねて生きていく。これが大切なことなのであります。
 私達は、信仰生活の優等生を、目指そうとしなくて良いのです。自分が生きている間に、何とか教会に功績を残そうと考える必要もありません。それをしてもしなくても、私達の全ては、神の国、神様の恵みの支配の中に永遠に生きられるからであります。その約束の御言葉、神様の救いの御言葉に委ねつつ、自分らしく、自分のままを生き続ければ良いのであります。
 生きている中で、私達は、計り知れないような苦しみや悲しみを経験するかもしれません。そのような悲惨な現実の中で、神様の救いを見失ってしまうこともあります。あるいは、神様から心が離れてしまうこともあるでしょう。
 しかし、神様の救いの約束は、決して、変わることもなければ、取り去られることもありません。なぜなら、神様こそが真実な御方だからであります。そして、御子を惜しみなく十字架に架けて下さるほどに、私達を愛してくださるからであります。ただ、この神様の愛に、自らを明け渡し、ただ、この神様の変わることのない救いの約束に委ねて生きる。そこにこそ、私達キリスト者の歩みがあり、私達の喜びと幸いがあるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:56| 日記