2019年11月25日

2019年11月24日 主日礼拝説教「弟子たちの召命」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書1章35節〜42節

 本日、私たちは終末主日の礼拝を守っています。教会の暦では、本日が一年の終わりの日であります。そして、次週からのアドヴェントをもって新たな一年が始まって行くのです。本日の礼拝は、この一年の教会の歩み、私たちの信仰の歩みが守られてきたことを主に感謝する時です。しかし、もう一つ大切なことがあります。それは、この終末主日が「終末」を覚える主日でもあるということです。終末とは、この世の終りの時です。この世界は、神様がその全てを造られました。世の始まりがあれば、終わりもあります。終わりという響きに、少し怖いと思われた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、キリスト教の信仰は違います。世の終わりは、キリストが再び来られ、神様の御国が完成する時です。私たちは、この世の全てから解放され、死を超えた永遠の命に生き、神様の御元に憩うのです。ですから、世の終わりの日は、喜びの日です。私たちキリスト者は、そこに希望の光を見ている。大きな喜びをもって終末を待ち望みたい。「御国をきたらせたまえ。」と声高らかに祈りたい。そための心を、本日、ご一緒に御言葉に聞き整えたいと思うのです。
 この終末主日の日に、私たちに与えられております御言葉は、ヨハネによる福音書1:35-42節であります。本日の説教題を「弟子たちの召命」とつけました。召命とは、キリスト教の専門用語です。英語では、callingといいます。callつまり、「呼ぶ」という意味がそこにはあります。キリスト教では、神様によって、呼び出されることを召命と言います。聖書にも、モーセや預言者たちなど、多くの召命を受けた人々の話が出てきます。皆、神様によって何か使命を成し遂げるために呼び起こされ立てられた人々です。そして、本日の箇所には、2人の若者が、主イエスの召命を受けたという物語が記されているのです。
 まず最初に、この物語において、どうしても触れておかなければならない言葉について、お話しておきたいと思います。それは、「見る」という言葉です。本日の箇所では、主イエスと洗礼者ヨハネそして、弟子たちが「見る」ということを通して、コミュニケーションをとっているような印象を受けます。洗礼者ヨハネが主イエスを見つめて、弟子たちに「見よ」と言う。弟子たちは主イエスに従って後を追い、主イエスはその姿を振り返って見る。ちなみに、39節の主イエスの言葉「来なさい。そうすればわかる。」は文語訳ですと「来れ、されば見ん」です。主イエスが泊まっておられる場所を、弟子たちは見た。見ることで、どんなところであるかが分かった。2人の内の一人は、後に十二弟子となるアンデレでした。彼は、41節で、自分の兄弟シモン・ペトロに会って「わたしたちはメシアに出会った」と伝えます。ここでの「会う」や「出会う」もまた、「見つける」とか「発見する」といった意味合いです。続く42節のシモンの召命は、主イエスに見つめられることから始まります。このように、本日の物語において、「見る」という言葉は、何度も、と言いますか、ほぼ全ての節に登場する言葉なのです。
 宗教改革者マルティン・ルターの言葉に「耳の中に目を突っ込みなさい。」という言葉があるそうです。耳で聞くだけでなく、耳の中に目があるかのように、言葉を「見る」ということを大切にしなさい。このような教えです。これは、私たちにとっては、少し皮肉まじりの言葉にも聞こえます。プロテスタント教会の中には、聖書や説教の言葉を重んじるあまり、どこか知識重視になってしまっているところがあります。知識をつけて聖書を理解することが、信仰の成長とイコールのようになってしまっているところがあるのです。そんな時、私たちの信仰の目は、違う方向を向いていると言わざるを得ません。
 先ほど、41節の「わたしたちはメシアに出会った。」は、「メシアを発見した。」というニュアンスであると申しました。見つけるというのは、当然のことながら、探していたものを見つけるということです。気づかなかったものに気づく。見えなかったものが見えるようになる。世の人々には見えないものが、自分には見える。本日の御言葉は繰り返し、「見る」ことによって主イエスと弟子たちが繋がっていく、ということを説きます。「見る」ということが、私たちの信仰にどれだけ大事かを教えてくれているのです。何より、福音書が示す「真理」とは、そもそも主イエスの救いを目撃した人々の、喜びに満ちた証言によって伝えられるものなのです。このことを心にとめる時、私たちは、毎週の礼拝で、一体どれだけ、私たちの救い主、主イエス・キリストを見る喜びを体験しているのだろうかと、考えさせられるのです。
 さて、本日の物語で、もう一つ印象に残る事柄は、主イエスの最初の弟子たちが、もともとヨハネの弟子であったということです。ヨハネは主イエスを見て「見よ、神の小羊だ。」と証しする。「さあ、見なさい」と弟子たちに言う。その一言、たった一言で、弟子たちはヨハネの元を去って、主イエスに従う者となりました。この弟子たちは、尊敬慕うヨハネ先生から、いとも簡単に鞍替えしてしまう。いささか薄情な弟子たちのようにも見えます。しかし、それほどまでに「見よ、神の小羊だ。」という一言は強力な力を持つ言葉であったのです。
 ところで、弟子たちの召命物語は、次の箇所43-51節にも続きます。ここでは、また別の若者たちが召命をうけて主イエスの弟子となるのです。いくつかの注解書には、ここに出てくる弟子たちは、実際の弟子たちでもあり、また、弟子たちの信仰を継承していった世々の教会でもあると注解されています。つまり、これは、私たちにまで続く教会の召命の物語でもあるのです。説教準備の時を過ごす中で、私は、本日のこの箇所を、私たちの愛するこの石山教会の召命物語としても読んできました。ここに集う、兄弟姉妹の方々にも、本日は是非そのようにも読んでいただきたいのです。そして、石山教会の召命がどのようなものであるか、この御言葉を通して示されるその大きな恵みを共に分かち合いたいと思うのです。
 「見よ、神の小羊だ。」という言葉は、私たちに、主イエスは真の神であるということを指し示しています。ここでイエス様について言われている「歩いておられる」という言葉は、「歩き回る」とか、「巡回する」などという意味合いの言葉です。つまり、主イエスは、ヨハネたちの方に、歩いてきた訳ではないのです。むしろ、ヨハネたちの前を歩いて通り過ぎようとした、と言った方が正確かもしれません。そのお姿を見て、ヨハネは、やはりこのお方こそ真の神であると確信したのです。なぜ、通り過ぎる主イエスを見て、ヨハネはそう言ったのでしょう。ここにはちゃんと理由があります。それは、「神の小羊」とは出エジプト記にある、過越の小羊のことであるからです。奴隷として囚われていたイスラエルの民が、エジプトから脱出する時に起きたあの出来事です。その時、イスラエルの民は、神様から言われた通り、羊の血を自分たちの家の門に塗りました。それを目印として神様は、イスラエルの家を過ぎ越す、つまり通り過ぎて、結果彼らは、神様が下す死の災いから逃れることができました。そして、エジプトから脱出し奴隷の苦しみからも救われたのです。ヨハネは、自分たちの目の前を過ぎ越される主イエスに、出エジプトの時、家の前を過ぎ越して行かれた神様のお姿を見たのです。そして、このお方こそが、これから十字架の血によって、自分たちを罪から救いだしてくださるお方、過越の小羊そのものであると確信したのでした。
 2人の若者は、ヨハネの言葉をすぐさま受け入れ、主イエスに従いました。そして主イエスは、後を追って歩いてくる彼らを見て、「何を求めているのか。」と言われるのです。ヨハネによる福音書に記される、一番最初の主イエスの言葉です。主イエスは、弟子達に、そして私たちに、「私は神である。」とか「メシアである」などとは言いません。まず、私たちの願い求めるものを聞いてくださるのです。これは、本当に大きな慰めです。主は、弟子たちに深い愛と憐れみを持って接してくださるお方でした。それは、彼らの信仰を受け継ぐ、この石山教会にも同じです。私たちは、様々な困難な課題を前に、時に立ち止まってしまいそうになります。しかし、そんな時こそ、私たちの必要が何かを知ってくださり、まず、私たちの願い求めに耳を傾けてくださるお方に従って行きたいと思うのです。
 では、私たちが、第一に主に求めるべきは、一体何でありましょうか。そこで、38節の弟子たちの言葉に、私たちは信仰者のあるべき姿を深く学ばされるのです。弟子たちは、主イエスの問い掛けに、問いを返す形で「どこに泊まっておられるのですか。」と答えました。これは、なんとなく主の居場所を知りたかったなどと言う、表面的な問いではありません。弟子たちは、「主がどこに泊まっておられるか。」を心から知りたいと求めたのです。ちなみに、この「泊まる」という言葉は、単なる「宿泊する」という意味ではありません。原語のメネインという言葉は、「留まる」や「繋がる」などの意味を持つ重要な神学用語です。他の福音書に比べると、特にヨハネによる福音書に多く使用されており、ヨハネが好んだ言葉でもあります。そして、この「留まる」という言葉から、私たちは、人生において私たちが一体どこに留まるべきなのか、私たちのこの存在の土台をどこに置くべきかが強く示されていくのです。
 主によって召命を受けた2人の若者たちは、その召しに応えるように、主イエスが留まっておられるところに、自分たちも一緒に留まりたいと願いました。そこがどのような場所であるか、詳細は記されておりません。しかし、ヨハネによる福音書の15章を読みますと、それがどこであるかがはっきりと示されていくのです。15章には、この「留まる」という言葉が、特に集中的に用いられています。その1節1節を詳細に読むことはいたしませんが、特に、15:9-10節において、主の留まるところがいかなる場所かが、主ご自身の言葉を通して明らかにされていくのです。その箇所をお読みします。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」主イエスが留まっておられるところ、それは、父なる神様の愛であります。そして、私たちは、主イエスに繋がることで、御父の愛に留まることができるのです。
 私たちは、今朝、弟子たちの召命物語を通して、私たちの主イエス・キリストのお姿を見ました。それは、私たちに先立って、私たちの目の前を歩いて行かれる主イエスのお姿でした。主が歩かれる道は、私たちの道です。主が歩いておられたのは、私たちがその後について歩いていくことができるためです。そして、主は、振り返ってくださり、後を歩く私たちを見てくださった。私たちは、その、主の温かい眼差しを見ました。主イエスは、私たちの飢え渇きを全て知ってくださいます。ですから、「イエス様と繋がりたい」という私たちの願いを、主はいつも待っていてくださいます。そして、求める者の願いを受け入れ、「わたしの元に来なさい。」と言ってくださるのです。世の終わりの時まで、その主のお姿を私たちは、信仰の目でしっかりと見つめて行きたい、主につき従っていきたい、そう願うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:28| 日記