2020年01月14日

2020年1月12日「ただ信じる」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書5章21節〜43節

 私達にとって「死」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「人生の終わり」でしょうか。それは「悲しい出来事」でしょうか。それは「絶望」とか「恐怖」でしょうか。恐らく、どれも間違ってはいません。私達にとって、「死」とは、決して明るい出来事ではなく、暗い出来事であります。
 しかし、キリスト教では、「死」のことを、他の言葉で表現します。それが「眠り」であります。地上での生涯を走り抜き、神様の御手の中で、全てを委ねて眠ること。これが「死」です。 
 そして、ここにはもう一つの意味があります。「死」が「眠り」であるということは、いつかは「起きる」ということです。いつかは「起こされる」時が来る、ということであります。ここにキリスト教の救いがあります。
 つまり、キリスト教は、「死」を越えた宗教であるということです。クリスチャンは、死に支配されることなく、この世の生涯を歩むことができるのであります。いつか肉は滅びます。しかし、その滅びは永遠ではありません。神様の御手の中で安心して眠り、そして、いつかは目を覚ます時がくるのであります。ここにキリスト教の救いがあります。
 それでは、なぜ、ここまで言い切ることができるのでしょうか。それは、私達が信じている、主イエス・キリスト御自身が、死に勝利した御方だからであります。
 今朝の御言葉にも記されています。主イエス・キリストは、死者を甦らせたのであります。つまり、主イエス・キリストにとって、死は無力なのであります。そして、主イエス・キリスト御自身もまた、死んで復活した御方であります。主イエス・キリストにとって死は、既に無力なのであります。
 この主イエス・キリストに従い、この主イエス・キリストに結ばれていきるとき、私達もまた、キリストと共に死を越えていくことができる。肉体が滅んでも、神様の御許で永遠の安息と目覚めの時を待ち望むことができる。ここにキリスト教の深い慰めと平安があるのであります。
 しかし、この恵みを初めから理解できる人間など、どこにもいません。恐らく、皆様の頭の中にも、沢山のハテナマークが浮かんでいるだろうと思います。それで良いのです。分かるから信じるのではありません。信じて従うから分かってくるのです。それが、キリスト教なのであります。
 初めから、この恵みや平安を理解出来る人などいません。主イエス・キリストの元に留まる。その先で、私達は、主イエス・キリストが、死を打ち破る御方であることを知ることができるのであります。
 今朝の御言葉には、ヤイロという人物が登場します。今朝の御言葉は、このヤイロという人物だけに注目したいと思います。彼は、主イエス・キリストのもとにひれ伏して、死に行く娘を救ってほしいとしきりに願います。彼は会堂長という偉い役職の人間でした。頼まれることはあっても、自分で頭を下げることのない人間です。その彼が、ひれ伏してしきりに願っているのであります。よほど、切羽詰まった状態だったのかもしれません。自分の力で何とか娘を救いたいと思ったでしょう。しかし、自分の力ではどうすることもできなかった。死の力の前で、自分の限界を思い知らされている状態なのであります。
 主イエス・キリストは、ヤイロの思いに答えてくださいます。そして、ヤイロと共に歩んで行かれます。その途中で、出血の止まらない女性が登場します。切羽詰まったヤイロにしてみると、足止めをくらうわけであります。彼にとっては辛い足止めです。
 しかし、彼は何も言わなかったのです。「早くして欲しい」とか、「足を止めないでほしい」とか。「無駄話はやめて」とか。彼は、何も言わないのです。ただただ、主イエス・キリストの元に、黙って留まるのです。
 そして、彼は、ついに、自分の娘の死の報告を受けます。「もうダメだ」「もうお終いだ」と思わずにはいられない現実が、彼を襲うのであります。
 主イエス・キリストは、彼に言います。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。この時も、彼は何も語らなかったのであります。「もう、娘は死んだ。あなたはもう必要ない。もう帰ってくれ」。本当は、そう言いたかったかもしれません。しかし、彼は何も語らないのです。ただただ、主イエス・キリストの元に留まるのであります。
 なぜでしょうか。彼は、主イエス・キリストを信じていたのでしょうか。そうではないと思います。もし、そうであるならば、なぜ、主イエス・キリストは「恐れるな。信じなさい」と言ったのでしょうか。彼もまた、不安になったのです。言葉には出せない心の悲鳴を叫んでいたのかもしれません。声に出ないほどの恐れに支配されていたのかもしれない。もう駄目だと、心の中で涙を流していたのかもしれない。でも、もう主イエスしか頼めないのです。だから、黙るしかない。自分のできることはもうないからなのです。でも、その気持ちが大事です。自分の口を閉じ、行動を辞め、ただ、主にのみ頼るしか道はない。その所で、救い主の声が聞こえてくるのであります。
 主イエス・キリストは、その彼の心の内側を、深く見つめてくださり、その上で、御言葉を与えてくださる。「まだ、大丈夫だよ。恐れなくていいよ。信じてね」。深い悲しみを知ってくださると共に、信じる信仰へと招く声をかけてくださるのであります。
 死を前にして、誰もがもうお終いだと思ったのです。誰もが限界の壁にぶつかってしまったのであります。誰もが、死を前にして諦めるしかなかったのであります。
 しかし、主イエス・キリストに招かれ、導かれていく、その先で、死を打ち破る、救い主を知ることができるのであります。主イエス・キリストにおいて、死すらも無力であるということを知ることが出来る。キリストによって信仰へと導かれていく先に、その力強い救い主が、この私と共にいることを知ることができるのであります。
 人生を歩んでいく中で、どうしようもないほどに、不安に支配されることがあるかもしれません。恐れに支配されることもあるでしょう。もうダメだと諦めたくなる現実もあります。この聖書箇所にもあるように、もうダメだと泣き出したり、諦めて笑うことしかできないこともあるかもしれない。
 しかし、主イエス・キリストは、その私達の痛みや苦しみや悲しみを深い所で知っていてくださり、信じる信仰へと招いてくださる。そして、主に招かれていく、その先で、死を打ち破るほどの御方が、ここにいる、という事実を教えてくださる。死を打ち破るほどの御方が、あなたの味方なのだ、ということを教えてくださるのであります。
 死を打ち破るほどの御方が、私達の味方であるならば、私達は何を恐れることがあるのでしょうか。私達もまた、自分の力ではどうすることもできない何かに支配されることもあります。主イエス・キリストに従っていても、不安になることがあるのです。
 しかし、主イエス・キリストは、その私達の痛みをちゃんと知ってくださり、信仰へと招き直してくださる。そして、御言葉をもって、励まし続けてくださる。そして、死を打ち破るほどの救い主が、あなたの側にいることを指し示してくださる。その幸いを、私達は、今ここで、改めて味わい直すことができるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:52| 日記