2020年02月03日

2020年2月2日 主日礼拝説教「人間中心の落とし穴」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書6章1節〜6節a

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書6章1節から6節の御言葉であります。聖書の小見出しには、「ナザレで受け入れられない」と記されています。
 「ナザレ」とは、何でしょうか。それは、主イエス・キリストが、育った故郷です。主イエス・キリストは、自分の故郷でも御言葉を語り、御業をしてくださったのです。
 しかし、「ナザレで受け入れられない」という出来事が起きたのであります。3節に記されている「つまずく」という言葉は、「拒絶」「拒む」という強い意味もあります。主イエス・キリストは、自分にとって一番、身近な人々に「拒絶」されたのであります。
 それでは、人々は、なぜ、主イエス・キリストを拒絶したのでしょうか。なぜ、故郷の人々は、主イエス・キリストを救い主として迎え入れることができなかったのでしょうか。
 それは、一言で言うならば、人間の思いが中心になったからなのであります。主イエスとは、こういう人間ではないか。主イエスとは、こういう人柄ではないか。自分の価値観で、主イエスを見過ぎたのであります。あるいは、自分の価値観を絶対化させて、主イエスとは、本来、こうあるべきなのだと考えてしまったかもしれません。自分の価値観の範囲の中で、主イエスという存在を評価してしまうのであります。
 だからこそ、今、目の前に起きている、御言葉や御業を素直に受け止めることが出来ない。そこに人間の価値観を越えた神様が生きておられる。そのことを受け止めきることが出来ない。自分の価値観の範囲の中でしか、真実を受け止められない。それ以上のものを受け止めることができない。いや、むしろ、その真実に心を閉ざしてしまうのであります。
 ナザレの人々は、主イエス・キリストのことをよく知っているのです。主イエス・キリストの家族のことも知っている。主イエス・キリストが大工であったことも知っている。彼らは、主イエス・キリストがマリアの息子であることも知っている。全てのことを知っている。しかし、知っている故に、信じられないのです。受け止められないのであります人間の先入観や価値観や経験や知識が、優先されてしまうからであります。
 これは、決して、故郷では受け入れられないという話ではありません。主イエス・キリストは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と語ります。しかし、実際には、主イエス・キリストを拒絶する人など、世界中に沢山いるのです。ここで大事なことは、家族が駄目、故郷が駄目、という話ではありません。人間の先入観や価値観や経験や知識が、絶対化され、優先されてしまうところでは、どこであっても、主イエスを正しく見つめる心の目が閉じてしまっているのだ、ということなのであります。 人々は、主イエス・キリストを「マリアの息子」と呼びます。「ヨセフの息子」とは呼ばないのです。恐らく、ヨセフは、この時、死んでいたのかもしれません。しかし、たとえ死んでいたとしても、ユダヤの社会では、ヨセフの名前で呼んでいただろうと思います。 しかし、人々は、主イエス・キリストを「マリアの息子」と呼んだのであります。何が言いたいのでしょうか。人々は、主イエス・キリストには「本当の父親がいない」という意味で、この呼び方をしたのであります。主イエス・キリストは、マリアが、結婚前に、聖霊によって身ごもった子どもです。しかし、人々の目には、父親が不明の子どもとして見られていた。ユダヤ社会では、恵まれた、望まれた存在ではない子どもとして見られたのであります。彼らは、初めから、主イエス・キリストを、自分たちの価値観の範囲の中でしか、受け止められなかった、ということなのであります。そして、この時もまた、自分たちの価値観や思いを中心にすることで、主イエスを救い主として受け入れることができなかった。拒絶することしかできなかったのであります。
 「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。」主イエス・キリストにもできないことがあるのでしょうか。主イエス・キリストにも限界があるのでしょうか。あるいは、人間の信仰に頼らなければ、何も出来ないのでしょうか。
 それは、違います。主イエス・キリストは、どのような不信仰に対しても、奇跡を行うことはできます。しかし、人間が、人間の価値観を優先するところでは、その人にとって奇跡は奇跡にならない、ということであります。どれだけ大きな御業や御言葉を与えられたとしても、自分の価値観の範囲でしか生きられないところでは、救いや喜びや奇跡が、その人のものにならないのだ、ということがここで示されているのではないのでしょうか。 大事なことは、何も持たないで、キリストの元に留まる、ということであります。自分の先入観や経験や知識や知恵を持たないで、正に、ありのままの姿で、主イエス・キリストのもとに留まる。沢山のものを持つ必要ないのです。何も分かってなくても良い。ただ、キリストの御言葉に聴き、キリストの救いを味わう。ここに神様が生きて下さることを知れば良いのであります。
 主イエス・キリストのことを知らなければ救われないのではないです。聖書のことを知らなければ信仰に入れないということではないのです。知識や経験が豊富であれば良いということではない。極端な話をするならば、主イエス・キリストに救われた多くの人は、初めから信仰があったわけではないのです。初めはみんな不信仰なんです。それでも、救いの光の中に入れられる。
 皆様が、どのような背景にあったとしても、主イエス・キリストを通して、神様が、あなたを救いたい、ということは変わりません。その招きの声に、素直に、耳を傾けたら良いのです。それは、あなたのために語られた神様の言葉だからであります。その大切なメッセージを、自分の思いとか感情とか価値観、好き嫌いで曇らせてしまうとき、そのメッセージはメッセージとして受け取れなくなってしまうのです。そこに人間中心の落とし穴があるのです。
 自分の価値観や思いや知識も、勿論、大切なものです。しかし、それらが、あなたを救うことになりません。私達の救いは、神様にしかないからです。自分のおってきたものを置いて、今、あなたを照らす救いの光に心の目を向けていく。そのところで、私達に与えられた救いの出来事が、私達自身のものになっていくことを見ることができるのであります。
 主イエス・キリストは、弟子たちと共に、故郷に帰られました。そして、その後、弟子たちを村や町へと派遣していきます。恐らく、主イエス・キリストは、この世界の現実を、弟子たちに、あるいは、教会に対して見せたかったのかもしれません。私達も遣わされている世界とは、こういう世界なのだと。人間の価値観が優先され、人間の思いが中心になる世界なのだということを、前もって教えてくださったのかもしれません。
 しかし、正に、そのところにこそ、教会が立つのだと。その所に弟子は派遣されるのだと。そのような世界にクリスチャンは生きるのだと。主イエス・キリストは、ここで教えてくださっているのではないでしょうか。
 この世界は、人間の価値観を優先する世界なのです。人間の思いが先行する世界なのです。そもそも、神を拒絶する世界なのです。しかし、その世界は見捨てられた世界ではありません。その只中に、主は、弟子達を派遣し、教会をたて、クリスチャンを生かすのであります。その拒絶する世界の只中にあって、弟子達は、福音を宣べ伝えるのです。この世界の只中にこそ、救いの光が当てられるのであります。何よりも、キリスト御自身が、この世界のために、命を捨てられるのであります。
 日本伝道は失敗だと言われることがあります。統計上は、そうなのかもしれません。皆さんの中にも、信仰継承や家庭伝道がふるわない現実に辛い思いをしている方もいるかもしれません。しかし、神様は、皆様の家庭も、社会も、そして、世界の国々のことも見捨てていない。拒絶していく世界のためにも、キリストは、十字架に架かり、復活してくださる。
 そして、その福音は、拒絶する世界の中にも、ちゃんと届けられていくのです。そもそも、みなさんが救われることが奇跡なのであります。神様は、今も、聖霊を通して、奇跡を起こし続けてくださると信じて良いのです。大事なことは、それをありままで受け止めていくこと。世界が、その救いの光に心が開かれるように、祈りを合わせつつ、共に歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:41| 日記