2020年02月24日

2020年2月23日 主日礼拝説教「私たちの教会」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書2章13節〜22節

 本日私たちに与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書2:13-22です。これは、主イエスの「宮清め」の出来事として知られている物語です。全部の福音書にも記されている大変有名な箇所です。
 本日の御言葉は、主がエルサレムの神殿の境内で、商売人や両替人たちをご覧になって、激しくお怒りになられたことを伝えます。鞭で動物たちを追い出し、お金を撒き散らし、台をひっくり返した。これが、ヨハネによる福音書が第2章から記し始めた主の公の宣教活動の2番目の出来事であるのです。主の伝道者としての歩みは、普通の感覚からすれば違和感を感じるものであったかもしれません。最初の伝道場所は、結婚式でした。伝道活動を始めて、主は真っ先に貧しき者たちや弱い者たちを助けに行かれたのではなく、むしろその逆で人生の絶頂とも思われるような祝宴の賑わいの中で伝道をされた。何日もお酒に酔いしれ、誰も神様を見ようとせず自分たちの享楽にどっぷりと浸かっているその真只中で、主は神の子として奇跡を行いその栄光を示されたのです。そして続くエルサレムの神殿では、かなり荒々しく振舞われる主のお姿が伝えられていきます。私たち夫婦が石山教会に来て7年が経とうとしておりますが、このような主の伝道者としての歩みを、ここで私たちも始めたであろうかと考えますと、主イエスのなさったこととはずいぶん違うように思います。どうして主は伝道者としての仕事始めを、このような仕方でなさったのでしょうか。
 主は、もしかしたら、一番御言葉を必要としている者たちのところから、伝道をなさったのかもしれません。主を最も必要とする人、それは、自分中心に生きる人です。聖書を読み返してみますと、カナの婚宴に集まっていた人々も、神殿の境内で商売をしていた人たちも、皆、神様ではなく、自分中心に振る舞う者たちであったとも読めるのです。
 そもそも、神殿の境内で商売をしていた者たちとは、どのような人々だったのでしょうか。この宮清めの出来事があった、過越祭とは、イスラエルの民の出エジプトの際に起きた、主の過越の出来事を由来としたお祭りです。過越祭の時には、各地に散っているユダヤ人が一斉に、エルサレムの神殿に宮詣でに集まります。長い巡礼の旅を経てやってくる人々が、神殿祭儀で献げるための犠牲の牛や羊を携えてくることはできません。動物たちは傷のないものでなくてはいけませんし、そもそも長旅に動物を連れて歩くことは不可能です。皆、旅の前に自分たちの所有している動物を売り、そのお金を持ってエルサレムにやって来て、同等の牛や羊を境内の商人から買って供物とするのが慣習でした。また、神殿で捧げるお金は、伝統的にローマ貨幣などの外貨は禁止で、ユダヤ人の貨幣のみが許されていました。そのために、境内には両替商がいたのです。礼拝のために、適当な手数料を支払い、犠牲の捧げ物を手に入れたり、献金を両替することは当たり前の慣習で、一見そこに大きな罪はないようにも思えます。しかし主は、そこに疑問を呈された。彼らに怒り、売り物の羊や牛を逃がしてしまわれ、お金を撒き散らし、台を倒された。主をこのような大胆な振る舞いにさせた何かがそこにはあったのです。それは一体何であったのでしょうか。
 その主の御心を知る手がかりが、16節の言葉にあります。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。(16節)」わたしの父の家。ヨハネによる福音書は、その冒頭から繰り返し、主イエスが神の子であることを伝えます。御子であるイエス様こそ、神様を「わたしの父」と呼べる唯一のお方であるのです。そしてイエスさまは、御父のことをよく知っておられる。そのお方が、神の宮である神殿の様子をご覧になって耐えられない思いをしておられるのです。それを主は、「わたしの父の家」が「商売の家」になっているからだと言われます。神様の神殿は、商売の家として腐敗している。神様を見上げていると言いながら、全く神様など見ていない。神様を拝んでいるつもりで、真の礼拝がささげられていない。そんな人々の様子を、主はじっとご覧になったのです。
 その眼差しで主は、私たちの石山教会の営みをどのようにご覧になるのでしょうか。教父アウグスティヌスは、この箇所の説教において、神殿商人たちを、教会に重ね合わせて見る時、「彼らは教会において自分自身のことを求め、イエス・キリストのことを求めない人々である。」と言います。主は鳩を売る人に、「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。(16節)」と言われます。鳩は、聖書の中で聖霊の象徴として出てくる動物です。例えば、イエス様の洗礼を受けた際に「神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になった(マタイ3:16、ヨハネ1:32、マルコ1:10、ルカ3:22)」とあります。その鳩を売る人に「わたしの父の家を商売の家としてはならない。(16節)」と言われた。ここから、鳩、すなわち神様の霊は、売り買いされるものではなく、天から与えられることによってのみ得られるのだ、ということが示されていくのです。ところが、鳩を売る商人たちは、私利私欲のために、あたかもそれが神から与えられた良いものであるかのように、自分たちの鳩を売るのです。それは信仰者の欺瞞です。私たちは、教会において、そのようなことが起こっていないか、また自分自身が鳩売りになっていないか、いつも注意を払う必要があるのです。
 しかし、主は彼らを追い出しはしませんでした。「このような物をここから運び出せ」と忠告されるのです。「このような物」とは、売り物の鳩です。聖書は、私たちに、そして、私たちの教会に「もし本来神様からしかあたえられないはずの鳩を、あなたたちが売り買いしてしまっていたなら、そのようなことをさせる心を、全てあなたたちの中から追い出しなさい」とおっしゃるのです。これは、自分を変えよという忠告です。主は、欺瞞に陥る信仰者たちに、自分自身を見るのではなく、神様の方に向き直りなさいと忠告されるのです。
 ところで、17節では、主の荒々しい様子を見た弟子たちが「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす。」という御言葉を思い出したことが記されています。これは、本日お読みした旧約聖書の詩編69:10の御言葉です。これを理解するには、少し説明が必要かもしれません。旧約聖書をもう一度読みますと、「あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りがわたしの上にふりかかっています。」となっています。これは、神様を信じる信仰のゆえに、迫害を受けて苦しむ信仰者の苦悩の歌です。つまり、神様の神殿を思う熱情を私は知っている。しかし、その熱情によって、人々の嘲りが自分にふりかかってきている、詩編の詩人はそのように歌うのです。ヨハネによる福音書に戻りますが、17節の原文を読みますと「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす(だろう)。」と未来形になっています。つまり、ここでは弟子たちが、今正に、真に神様を思う熱情の故に、イエス様に苦しみが降りかかろうとしているのではないかと、詩編の言葉を思い出して案じている、ということが分かるのです。ご自分の父である神様の神殿を思う熱情にかられて、怒り、乱暴な振舞いをなさる主イエスは、人々を敵にまわし、反感をかい、嘲られてしまう、そう弟子たちは心配したのです。
 その不安は現実になってしまいます。ユダヤ人たちが、主にこのように質問してきたのです。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか。(18節)」これは、強い反感と敵対の言葉です。神殿でこんなひどい振る舞いをするなんて、お前は何様だ。お前は神様を父と言うが、それならその証拠、しるしを見せてみろと言っているのです。
 主の答えはこうでした。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。(19節)」おそらく、これはユダヤ人たちが期待していた答えとは全く違ったものであったでしょう。ユダヤ人たちは、もしかしたら目に見えて、明らかにこの人は神だと分かる「しるし」がでてくるかもしれない。いや、そんなことがあるわけがない、万が一あったとしてもその嘘を暴いてやろう。このように思っていたのかもしれません。ところが、「しるし」らしい「しるし」は何も起こらないどころか、訳が分からない答えが返ってきたのです。もちろん、私たちがこれを読んだ時、当たり前のように、この主の言葉は、ご自身の十字架の死と復活のことを言われていると理解することができます。しかし、主の答えは、当時のユダヤ人たちには理解できないどころか、あきれるような言葉でありました。
 それが「この神殿は建てるのに46年もかかった(20節)」という言葉に現れています。もそもそも、当時の神殿とは、一体どのようなものであったのでしょうか。お手持ちの新共同訳聖書の付録「用語解説」の「神殿」の欄には、「紀元前20年ごろヘロデ大王は大規模な修理拡張工事を始めた。イエスの時代には、周囲に回廊を巡らした広い境内と、白い大理石の美しい本殿を持つ、りっぱな建造物であった。」とあります。紀元前20年頃から計算しますと、宮清めの出来事は、紀元27、8年頃、おおよそ主が30歳ぐらいで伝道活動を始められたことを考えると、ユダヤ人の言う「46年」は、ほぼ正確な数字であることがわかります。46年とは決して短い期間ではありません。しかも、歴史を見ますと、この時はまだ建設途中であった。実際には神殿の建設に63年かかっているのです。神殿建設の大変さは年月だけではありません。そこには、大変な労力とお金がかけられていました。それは、ユダヤ人の熱心な信仰の現れであったかもしれません。その熱心な信仰とその結晶である立派な神殿を彼らは誇りとしていたのです。
 しかし、このような熱心があるにもかかわらず、ユダヤ人たちは、主イエスの言葉を理解することはできません。「46年もかけて建てたこの立派な神殿を、三日で建てられるなんて馬鹿げた考えだ。」こう思っていたのです。それを、近代の新約聖書学者ブルトマンは「ヨハネ的誤解」と呼びます。ヨハネによる福音書特有の、人間の罪ゆえの誤解、主イエスに対する無理解のことです。主イエスが神的な事柄を霊において語られたにもかかわらず、人間は「うわべの(7:24)」「肉による(8:15)」受け止め方しかできない。46年の自分の誇りを通してしか主に聞くことができないのです。このようなユダヤ人たちの姿にも、自分中心の人間の罪が暴露されていくのです。
 また、ここで大切なことは、主に対する誤解、無理解は、ユダヤ人たちだけのことではなかったということです。弟子たちもまた、このとき主の言葉を理解していなかったのです。弟子たちが主の言葉の真理に気づくのは、「イエスが死者の中から復活されたとき(22節)」であったと記されています。肉ではなく霊において主の言葉に聞くことを、私たちは信仰者としてどのように考えていけばよいのでしょうか。
 本日の説教題を「私たちの教会」としました。「私の教会だから、私はこの教会を愛する」「私たちの教会だから一生懸命奉仕する」しばしばこのような言葉を耳にすることがあります。少し差し支えのあることかもしれませんが、このような言葉は聞き方によっては誤解を招く言葉であります。確かに、教会に対する所属意識から、その教会を愛するということは悪いことではありません。しかし、それが「主」ではなく「私」に根ざした信仰になってしまう時、「私たちの教会」は宮清めの物語において主が憤られた神殿の有様になってしまうのです。
 21節には、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」とあります。原文を読むと、ここで使われる「神殿」という言葉は、他の箇所の「神殿」という言葉とは違う語句であることに気づきます。厳密に訳すならそれは「至聖所」と訳したほうが正確かもしれません。旧約聖書で言うところの、天幕の奥にある、神様が宿る、人が見てはいけない場所のことです。本来はそのような最も秘儀的な隠された場所を、主はご自身の体であると言われる。もちろん主のお身体とは、十字架で死に、肉体をもって御復活されたその御体のことです。主イエス・キリストにこそ、私たちは、本来見ることがゆるされない、神様を見ることができるのだということが、ここでは強く示されていくのです。
 そして、ヨハネによる福音書14:15以下を読みますと、主が、御復活と昇天の後、弟子たちに「真理の霊」を送ってくださることを約束された言葉が記されています。それが後にペンテコステの出来事として実現し、教会は今日に至るまで聖霊の現臨と豊かな祝福の元に建ち続けてきたのです。
 主は、御霊として今ここにも働いておられます。そのことを信じ、「肉」ではなく「霊」によって主の言葉に聞く群れ、それが「私たちの石山教会」です。私たちは、「霊と真理をもって神様を礼拝する(4:23)」共同体です。そのことと真摯に向き合う時、私たちは、石山教会が「私たちの教会」ではなく、「私たちこそが石山教会」そのものであることに気づかされるのです。パウロはコリントの信徒への手紙一3:19において次のように記しています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」私たちは今、主の御言葉をいただきました。そして、聖霊の豊かな導きによって、私たちがもはや、あの自分中心的な鳩売りでも、主に敵対するユダヤ人でもないということを知っています。主が生きた霊として私たちと共にあって、私たちの内に働いてくださっていることも知っています。ですから、今ここに、主が私たちを主の宮の一人一人として召し出し、この石山教会を建ててくださっていることを信じ喜びたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:00| 日記