2020年04月04日

2020年4月5日 主日礼拝説教「神の言葉を無にする人」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書7章1節〜13節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書7章1節から13節の御言葉であります。
 今朝の御言葉で大切なことは、「人の言葉が大事なのか」あるいは「神様の御言葉が大事なのか」ということであります。「人の言葉に聴くのか」あるいは、「神様の御言葉に聴くのか」。それが今朝の御言葉の大切なポイントであります。そして、ここで大事なことは、神様の御言葉も人の言葉も、どっちも大事、といった、中間的なことではありません。神か人か。究極の選択がここで問われている、ということが大事なのであります。そのことを踏まえた上で、今朝の御言葉に聴きたいと思います。
 主イエス・キリストの元に、ファリサイ派の人々と律法学者が訪れます。そして、彼らは、ある一つのことを批判します。それは、「なぜ、一部の弟子たちは、食事の前に手を洗わないのか」ということです。
 ファリサイ派の人々と律法学者たちにとって、何よりも大事なことがあります。それは、神様の前で、いつでも清くいることです。これは、決して、衛生上の問題ではありません。信仰的な問題です。神様の民として、神様の前で、いつでも清くあること。そのためには、いつでも、どこでも身を清く保たなければいけない。それが、彼らの信仰的な理念でありました。そして、その理念は、今朝の聖書の御言葉4節以下を見ますと、かなり細かく規定されていたようであります。どちらにせよ、彼らは、ここで自分たちの理念を基準にして、あるいは自分たちの理念を優先した上で、主イエス・キリストを批判しているのであります。
 しかし、ここで一つだけ大きな問題がありました。それは、「食事の前に手を洗うこと」について、旧約聖書には、明確に書かれていなかったということであります。つまり、聖書に書かれていない、神様が語られていないことを基準にし、優先し、教えていた、ということなのであります。
 彼らにとって大切なことは、神様の前で清く有り続けることです。その目的を果たすためには、生活の中で、新たなルールを作らなければいけなかった。律法を正しく守るためには、様々なイレギュラーに対応するためのマニュアルが必要になった。それが、昔からの言い伝えとして残されていたのであります。
 あくまでも、言い伝えは、神様の御言葉を守るための補足であります。しかし、いつの間にか、神様の御言葉と同等の価値を持つようになってしまった。神様の御言葉に聴くことよりも、人の言い伝えが、まるで、神様の御言葉のように扱われるようになってしまったのであります。
 なぜでしょうか。それは、人の言い伝えを守ることは、人の誉れを受けるからです。人に喜ばれるからです。人に喜ばれるからであります。人から尊敬されるからであります。そのような心が、人の言い伝えに価値を生み出してしまった、ということなのであります。
 そして、このような状態の人間を、主イエス・キリストは、「偽善者」と呼んだのであります。信仰的には、正しい理屈を語りながら、神様の御言葉を無にしている。そのような人間は、外面だけを取り繕い、内面は悪に満ちているのだということです。ここに偽善者の現実があるのだというのでです。
 このことを更に、詳しく、主イエス・キリストは、モーセの十戒に基づいて説明をしています。8節から13節の御言葉をお読みします。「『あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。』更に、イエスは言われた。『あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、【父と母を敬え】と言い、【父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである】とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。【もし、だれかが父または母に対して[あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です]と言えば、その父はもはや父または母に対して何もしないで済むのだと】。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている』」。
 「父と母を敬え」。これは、十戒の五つ目の戒めです。しかし、この戒めには、人間の造り出した抜け道がありました。それは、神様への献身を理由に、父母からの責任から逃れられるということであります。信仰的には正しい理屈になります。
 しかし、神様の御言葉が第一ではない。父と母を敬うことが、神様の命じていることなのに、神様を理由に、父と母を敬わなくても良い、ということ。それは、本当の意味で、神様を信じているとは言えないのだ、ということです。つまり、人間の言い伝えを優先した、口先だけの信仰になっているのではないか、ということなのであります。
 主イエス・キリストは、正に、その問題点をついてきたわけであります。「人の言葉に聴くのか」「神の言葉を無にしていないだろうか」。「神よりも人が優先されていないだろうか」そのように、彼らに問いかけているのであります。
 そして、この問いかけは、今、私達にも問われているのではないでしょうか。教会の習慣、クリスチャンの習慣が、いつの間にか、人が作り出した習慣になっていないだろうか。習慣になることは悪いことではありません。しかし、そのような習慣や伝統が、神様の御言葉や御心と同じ意味を持ってしまっていないだろうか。クリスチャンとは、こう生きるべきだ、という正しさが、神様の正しさよりも優先されていないだろうか。それが、今の私達にも強く問われているのではないかと思うのであります。
 それでは、そもそも、主イエス・キリストは、「食事の前に、手を洗うべきか」あるいは、「洗わなくても良いのか」。この問いに対して、どのように、主イエス・キリストは応えているのでしょうか。
 今朝の御言葉をよく読むと、イエス様の応えが明確に見えてきます。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、弟子たちが手を洗わなかったことを、主イエス・キリストに指摘しているのです。つまり、主イエス・キリストは、手を洗っていた、ということになります。
 つまり、主イエス・キリストにとって、食事の前に手を洗うか洗わないかなど、どうでもよかった、ということになります。違う言い方をするならば、「どっちでも自由」ということなのであります。主イエス・キリストの弟子たちは、人間の言い伝え、人間の教え、人間の思いにとらわれない自由をもっている、ということなのであります。
 神様が望んでいることは、人間が人間の言い伝えに従って、神様のために生きることではなくて、人々が、ただ一心に神様に、神様の御言葉に聴き、神様だけに心を向けることなのであります。手を洗うにしても、洗わないにしても、何よりもまず、心を神様に向けていくこと。それが神様の望んでおられる生き方なのであります。
 ここで問題になっているのは、「清さはどのように得られるのか」ということなのであります。清くなるためには、何をするのか。手を洗えばよいのか。体を洗えば良いのか。即ち、人間の努力によって、清さを得ることができるのか。主イエス・キリストは、それは違うと、ここで仰せになりたいのでありましょう。
 あなたを清くするのは、あなたの努力でもなければ、人間の言い伝えでもない。あなたを清くすることができるのは、神様しかいない。だから、ただ、心を神様に向けて欲しい。人間の言葉ではなく、神様の御言葉に聴きながら、その御言葉に全てを委ねながら、信仰生活を送って欲しい。それが、今朝、私達に与えられた御言葉なのであります。
 人間は、人間の力で清く生きることはできません。人間は、それほど神様の目には、不可能さに満ちております。しかし、神様は、その人間の汚れを、キリストに担わせ、私達を清めてくださる。神様のものとしてくださる。その神様に心を向けて生きる。その神様の救いの御心に生かされて歩み続けていく。その神様の御言葉だけに耳を傾けていく。そこでこそ、私達は、真の清さを頂き、神様のものとしていただき、神様の子どもとして歩んでいく道が備えられているのです。その幸いを改めて、深く心に刻みつつ、
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:30| 日記