2020年06月01日

2020年6月7日 主日礼拝「命を得るために」須賀 工牧師

2020年6月7日 主日礼拝

〇招詞 詩編95篇1節
   主に向かって喜び歌おう。
救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。

〇主の祈り
天にまします我らの父よ。願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試(こころ)みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり。アーメン。

〇祈り
 天の神様、あなたの御名を賛美します。
 今、あなたの恵みの中で、生かされて、あなたを礼拝することができます幸いに、深く感謝を申し上げます。
 どうか、今、共に礼拝を捧げる一人一人の心を一つにし、高らかに、あなたの御名を賛美する礼拝を捧げられますように、あなたが、中心に立って、私達の心を導いてください。
 過ぐる日々、あなたによって生かされていながらも、あなたの恵みを忘れ、御心に適うことの少なかった、私達を憐れんで下さい。どうか、あなたが御言葉の力によって、聖霊の働きによって、再度、私達の心を開いてくださり、あなたの救いの確かさを見上げるものへと導いてください。
 長い期間、会衆を入れずに礼拝をささげてきましたが、今日より、共に礼拝を捧げる時が与えられましたことを感謝します。しかし、今もまだ、この礼拝に来ることのできない兄弟姉妹がいることも覚えます。どうか、ここにいる一人一人も、それぞれの場所で礼拝を捧げている一人一人においても、あなたが等しく恵みと祝福を与えてくださいますように、心よりお願い申し上げます。
 そして、一日も早く、安心して、この会堂に、皆が共に集い、共に礼拝を捧げることができますようにお守りください。病の内にある方々、痛みを覚えている方々がおりますならば、特に、あなたがかえりみてくださり、あなたの癒しの御手の内に、新たに生かしていただきますように、心より祈ります。
 過ぐる日、あなたの御許に召された、聖徒達を覚えます。どうか、今、あなたの御手の中で、真の平安を得ていることを信じるものとしてください。天にある民も、地にある民も、共に復活の希望の中に生かされ、高らかに、あなたを賛美することができますようにお守りください。愛する者を失い、悲しみのうちにいる方がおりましたら、どうか、あなたが慰めと励ましを与えてください。
 感染症の脅威は、まだ、人類を脅かしています。どうか、世界中の一人一人が、この時も安心して生活ができますように。そして、この脅威と日々、格闘している医療関係の方々、それぞれの社会の上に、あなたの励ましを与え続けてください。
 全てのことを感謝し、全てのことを委ねて、このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン

〇聖書
新約聖書 マルコによる福音書8章31節〜38節
31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者た   ちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教   え始められた。
32 しかも、そのことをはっきりとお話になった。すると、ペトロはイエスをわきへお   連れして、いさめ始めた。
33 イエスは振り返って弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引   き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者   は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために   命を失う者は、それを救うのである。
36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。            38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、   父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
旧約聖書 イザヤ書55章8節〜9節
8  わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異な   ると/主は言われる。
9  天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思い   は/あなたたちの思いを、高く超えている。

〇説教「命を得るために」須賀 工牧師
 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書8章31節から38節の御言葉であります。今朝は、その中から、31節から33節の御言葉に聴いて参りたいと思います。
 31節を改めてお読みします。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。
 「人の子」とは、何でしょうか。これは、「主イエス・キリスト御自身」のことを指しています。文字通り、「人間の子」という意味です。
 しかし、この言葉には、もう一つの意味があります。旧約聖書によると「人の子」という言葉は、「メシア」即ち、「救い主」という意味で用いられているのです。
 つまり、「救い主」「メシア」は、「必ず多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、三日後に復活することになっている」ということが、ここで明らかにされているのであります。 ここで、注目すべき言葉は、まず、「必ず」という言葉。そして、「なっている」という言葉であります。救い主の死と復活は、「必ず」のことであり、「定められている」ことなのであります。
 即ち、救い主の死と復活は、成り行きによるものではなく、神様の御心によるものなのだ、ということなのです。神様の御意志によるものなのであります。救い主が、その救いを成し遂げるために、神様が、御子の十字架の死と復活を計画しておられた、ということなのであります。人間を救うために、神様が、御子を、惜しみなく、十字架の道へと歩ませているのであります。これが、まず大切なことなのであります。
 そして、もう一つ、大切な言葉があります。それが「弟子たちに教え始められた」という言葉です。聖書の小見出しによると「死と復活を予告する」と書かれています。しかし、実際には、主イエス・キリストが、弟子たちに「死と復活を教え始められた」のであります。即ち、主イエス・キリストは、弟子たちに、十字架の死と復活を「教える始める」必要を感じた、ということでありましょう。
 それでは、なぜ、このタイミングで、十字架の死と復活を、弟子たちに教える必要があったのでしょうか。
 それは、ペテロが、弟子たちを代表して、信仰を告白したからであります。ペトロは、主イエス・キリストに向かって、「あなたはメシアです」と告白をしました。「あなたは救い主」だと告白をしたのであります。このペトロの信仰告白を受けて、主イエス・キリストは、御自身の死と復活について、教える必要を感じたということなのです。
 それは、なぜでしょうか。それは、主イエス・キリストの救い主としての働きと、弟子たちが理想とするメシアの働きに、距離や違いがあった。そのことに、主御自身が気づいておられたからではないでしょうか。だからこそ、救い主の本当の働きについて、ここで、正しく、はっきりと教え始める必要があったのだということなのであります。
 そのような、弟子たち−とりわけペトロ−の無理解については、今朝の御言葉の32節で明かにされているようであります。32節を改めてお読みします。「しかも、そのことをはっきりとお話になった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」。 ペトロは、なぜ、主イエス・キリストを「いさめた」のでしょうか。ペトロにとって、救い主が、苦しみを受け、死んで行くことなど、到底、ありえないと考えたからでありましょう。主イエス・キリストは、ここで復活についても語っています。しかし、ペトロの耳には、その言葉すら、ここでは届いていないのかもしれません。
 どちらにせよ、救い主が、苦難を受けることは、間違っていると思った。だから、それを、弟子の代表である自分が、正さなければいけない。そのように感じたのだろうと思います。 
 この「いさめる」という言葉の中には、「叱る」という意味もあります。自分の師を弟子が叱るのです。立場が逆転してしまうのです。それほど、救い主が、苦しみを受けることなど、ましてや死ぬことなどは、あり得ない。そのように思っていたのかもしれません。
 しかし、それは違う見方で言うならば、ペトロには、ペトロなりの「メシアの理想像」があった、ということを意味しています。それが、具体的に、どのような理想であったかは、わかりません。ただ、少なくても、人々に排斥され、捨てられ、殺されるような救い主ではない。栄光に満ち、力強く、敵を打ち破り、人々に崇められる存在であると考えたに違いありません。いや、当時の全ての人間が、このような救い主の存在を望んでいたのかもしれない。いや、私達もまた、そのような、力強い存在を求めていることもあるかもしれないのです。
 ここでのペトロの問題は、自分が、主イエス・キリストのことを、あるいは、救い主のことを一番、よく理解している、という気になっていたということです。自分は、主イエスのことを知っている。救い主のこともよくわかっている。そのような思いが先に来る。だからこそ、主イエスとは、こうでなければいけない。救い主はこうでなければいけない。そのような人間の思いが優先してしまうのです。
 これは、私達と無関係ではないだろうと思います。教会生活を送り、沢山の礼拝をささげてきた。そのような経験を通して、いつの間にか、自分は、主イエスのことがよく分かっている気になってしまう。救い主のことを理解しているような気持ちになってしまう。だから、「救い主とはこうでなければいけない。」「主イエスとは、こういう人でなければいけない。」そのような思いにとらわれてしまう。そういうことは、私達にも起こり得る問題であります。
 その時、私達もまた、ペトロと同じ過ちを繰り返してしまうのであります。主イエスとは、こうだ、こうでなければいけない。救い主とは、こういうものでなければいけない、という思いは、正に、神様の御心よりも、自分自身の理想を中心とした生き方へと私達を陥れていくのであります。
 そして、その時、私達も又、悪魔の支配の中に生きているのかもしれません。悪魔は、人間の理想を大事にします。人間にとって都合のよいことを押し出してくる存在です。ペトロの望む、理想的な救い主は、正に、人間が望む救い主でありましょう。そして、それは、人間にとって、都合の良い救い主の姿であります。正に、そこに悪魔の働きがある。そして、その悪魔に支配された人は、人間にとって良いことをして欲しいと、主イエス・キリストを誘惑するのであります。救い主であれば、こういうことを言って欲しい、やってほしい。その方が人のためになるのだと。もしかすると、そのようの思いが、私達のうちにもあるかもしれません。
 ここで改めて、33節の御言葉をお読みします。「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」。
 主イエス・キリストは、ペトロを叱ります。しかし、決して、彼を見捨てることはありません。「引き下がれ」という言葉は、「後ろに回れ」という意味であります。「本来、いるべき場所にいなさい」という意味です。主イエス・キリストは、決して、ペトロを見捨てないのであります。「後ろに従いなさい」と命じられるのであります。
 つまり、ペトロは、主イエスの前にいた、ということでありましょう。 実際に、聖書には、主イエス・キリストが「振り返った」とありますから、主イエスが、弟子たちの先頭にいただろうと思います。
 しかし、その心は違った。自分が先に来ていた。自分を優先していた。人間の思いを中心とする、ということは、正に、このように、主イエス・キリストよりも前にたつことなのであります。
 そのような、ペトロに対して、「あなたのいるべき場所にいなさい」と言われるのであります。ペトロにとって、この言葉は、思い出の言葉です。主イエス・キリストに招かれた時の言葉であります。今の自分の原点となる言葉であります。
 主イエス・キリストは、かつて、ペトロに言われたのです。「私の後に従いなさい」と。その時、全てを捨てて従ったのであります。しかし、今、気づいたら、自分は自分の理想を捨て切れていなかったのです。今、気づいたら、自分は、主イエス・キリストの前に立っていたのであります。そのことに、今、主の御言葉を通して、気づかされただろうと思うのであります。
 主イエス・キリストは、このように、ペトロを見捨てて行くのではなく、改めて、召された時へと彼を立ち帰らせるのであります。そして、何よりも、主イエス・キリストの背中越しに見える景色を、新たに見させてくださるのであります。
 その景色とは、何でしょうか。それが、十字架の死と復活なのであります。今から、わたしは、あそこにむかっていくのだ、ということなのです。あなたが、私の後に従っていく先には、十字架がある。自分を捨てて、立ち帰っていくとき、あなたの見る新しい景色には、あの十字架があるのだ、ということなのです。
 しかし、そこに神様の救いの御意志がある。そこにこそ、命がある。自分の命や理想を捨てて、十字架を背負って、主の後に従って、歩んでいく先に、救い主の十字架の死と復活がある。そこに、あなたの本当の命がある。救いがある。そのように、主イエス・キリストは、ここでペトロに、語りかけているのではないかと思うのであります。
 私達も又、自分の理想や思いが優先してしまうことがある。その時、御言葉の本当の意味や救いの本当の恵みを見間違えてしまうことがある。その間違った価値観を、神様に求めてしまうこともある。その時、人間は悪魔の支配の中にいるかもしれない。
 しかし、それでも救い主は、私達を見捨てない。自分の理想や思いを捨てて、立ち帰ることへと招き続けてくださる。そして、その主の背後から、十字架の死と復活にある真の救いを、改めて見させてくださる。この大きな幸いへと、私達を何度でも立ち帰らせてくださるのであります。この幸いを改めて、この御言葉から指し示されているのであります。

〇祈り
 天の神様、新しい御言葉の恵みに心から感謝申し上げます。私達は、どうしても、自分の思いを捨てきれずに、あなたの御子の前を歩んでしまうことがあります。どうか、おゆるしください。しかし、それでも、あなたの御子は、私達を見捨てることなく、本来、あるべき姿へと招いてくださり、そこで、改めて、十字架の死と復活の救いを見させてくださいます。その恵みに深く感謝します。どうか、この恵みを覚えて、感謝と喜びと真の献身の心をもって、あなたに従って歩むものとしてください。そして、どうか、この恵みを未だ知らずにいる方々がいますならば、あなたが導きの御手の内に置いて頂きますように心よりお願い申し上げます。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって、おささげいたします。アーメン。

〇使徒信条
 我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:29| 日記