2020年07月05日

2020年7月5日 主日礼拝説教「救い主の苦難」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書9章9節〜13節

 今朝、私達に、与えられた御言葉は、マルコによる福音書9章9節から13節の御言葉であります。9節と10節をお読みします。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」「今見たことを誰にも話してはいけない」。
 主イエス・キリストは、弟子たちに口止めをします。「今見たこと」とは、何でしょうか。それは、この前に、書かれている出来事です。即ち、主イエス・キリストが「栄光に輝く姿に変えられた」という出来事であります。
 主イエス・キリストは、この出来事について、口止めをされたのです。その理由は、明確です。それは、人々に、余計な誤解を与えないためです。
 「主イエスは、輝く救い主だ」「主イエスは、栄光に溢れた救い主だ」「主イエスは、権威と力に溢れた救い主だ」。このように、人々が、勝手なイメージで、主イエス・キリストを受け止めることがないように、口止めをされたのであります。
 しかし、ここには、一つの条件が付けられています。それは「復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」ということです。逆に申し上げるならば、主イエス・キリストが、復活したら、誰にでも、話してよい、ということなのであります。
 もう少し、踏み込んで申し上げるならば、復活の主イエス・キリストと出会うことなく、主イエス・キリストの栄光、力、光を、本当の形で、理解することが出来ないのだ、ということなのです。私達が、主イエス・キリストの勝利と栄光と力を知るためには、主イエス・キリストの十字架の死と復活が、大切なのです。
 聖書によれば、主イエス・キリストの弟子たちは、この「復活」について、理解をすることができなかったようです。「復活」が分からなければ、主イエス・キリストの本当の「栄光」が分かりません。そして、「栄光」が分からなければ、そこで、一つの疑問が生まれます。それは、「この人は、本当の救い主なのだろうか」という問いであります。
 実は、この次に、弟子たちが、主イエス・キリストに問うていることは、そのような問いなのであります。11節の御言葉をお読みします。「そして、イエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた」。
 当時のユダヤ人には、一つの希望がありました。それは、「神様の救いの日が来る」という希望です。その日には、救い主が、この世界に到来し、救われる者と救われない者が裁かれる。そのように信じられました。そして、彼らにとって、その救い主は、栄光や勝利、力や権威に満ちた存在でありました。つまり、その輝かしい救い主が、到来し、正しい者とそうでない者とを裁くのだと。そのように信じていたのであります。
 しかし、この救い主が、突然、来るわけではありません。救い主が、到来する前兆があるのです。即ち、救い主が、到来する前に、救い主の到来を告げる先駆者が、先に来るということです。それが、預言者エリヤであると信じられていました。
 救い主は、栄光に、輝く存在でありますから、当然、その先駆者も又、栄光に輝くものでなければいけません。しかし、そのような存在が、まだ、この時には、来ていなかったのであります。栄光に輝き、力ある先駆者が、未だ来ていない。そうであるならば、あなたは、本当に、救い主なのか。先駆者がまだ来ていないのに、救い主が、先に来るとは、どうも考えにくい。そのように思ったのであります。
 ここには、まず、当時の人々、取り分け律法学者たちの考えるメシア像と主イエス御自身との間に、大きなギャップがあるということが分かります。人々が望んでいる救い主の姿が、主イエスには、見られない、ということであります。
 そのことを踏まえた上で、主イエス・キリストは、次の御言葉を語られるのであります。12節から13節をお読みします。「イエスは言われた。『確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである』」。
 ここで重要なことは、当時の人々のメシア像、理想像は、聖書には基づいていなかった、ということです。神様の御言葉よりも、自分たちの理想を優先したものでしかない、ということです。救い主とは、こうあるべきである。そういう人間の思いが、神様の御言葉よりも先に来てしまうということが、ここで起きているのです。
 それは、私達とは、無関係ではないだろうと思います。しかし、正に、そのところで、私達は、本当の救い主の姿を見失っているのかもしれません。あるいは、本当の救いが、見えにくくなっているのかもしれません。そのように言えるだろうと思うのです。
 主イエス・キリストは、ここで、聖書に基づいて御言葉を語られます。恐らく、主イエス・キリストは、ここで、イザヤ書53章の御言葉を意識していると考えられます。少し、長いですが、御言葉を読んでみたいと思います。イザヤ書53章です。どうぞ、お聞き下さい。「以下省略」。
 この御言葉は、「苦難の僕の歌」と呼ばれ、「救い主の預言」を示す御言葉として語られています。神様は、救い主を遣わします。しかし、その救い主は、人々に苦しみを受けます。しかし、その苦しみや痛みこそが、私達の受けるべき病であり、死であり、痛みだったということです。そのことを通して、私達が、罪から贖われる。それが、救い主の姿なのだということなのです。
 人間は、輝かし救い主を望みます。しかし、神様が示される救い主とは、好ましい姿をしているわけではありません。人々の痛みを背負い、背負うことで、人を救う存在なのだ、ということです。そして、その悲惨な苦しみの内にこそ、神様の御心があり、神様の栄光、救いの光、勝利があるのだ、ということなのであります。
 そして、主イエス・キリストは、ここで、エリヤは、もう来たのだと、仰せになります。それは誰でしょうか。それが、洗礼者ヨハネであります。ヨハネは、救い主を証しし、人々を救い主へと導いた、正に、先駆者であります。彼は、この世の栄光を受けることなく、人々に好きなようにあしらわれ、悲惨な死を遂げます。
 しかし、先週のお話にもありましたが、それこそが、救い主の友とされたヨハネの最高の喜びだったわけです。先ほども申し上げましたが、人の目に栄光に輝く救い主が、本当の救い主であるならば、その先駆者もまた、栄光に輝いているものです。しかし、人々によって、苦しみを受ける救い主であるならば、その先駆者もまた、苦しみを受けるのです。その意味において、洗礼者ヨハネは、一番、最高の形で、救い主を証ししたことになるのだということなのです。人々によって、好きなようにあしらわれることで、彼の後に来る、救い主の救いが、どのような救いなのか、ということを命をかけて証ししたことになるのであります。
 この御言葉で大切なことは、何でしょうか。それは、もう既に、私達の内には、救い主がいてくださる、ということです。自分を救ってくれる、誰かを、もう待つ必要ないのです。もう、ここにいる。あなたの内に生きておられる。その御方は、あなたが、理想とする姿とは違うかもしれない。
 しかし、あなたのために、惜しみなく、命を捨て、あなたを神様と繋いでくださる救い主です。そこに、本当の喜びがあり、そこに本当の幸いがあります。そして、そこにこそ、神様の栄光に輝く、真の救い主がいるのです。
 皆さんもまた、その勝利や力、その光の中に生きることができるのであります。それは、人の理想の中にあるのではないです。どこまでも、神様の御心の中にある。そして、その神様の御心は、救い主を、十字架にかける程に、あなたを愛したい、あなたを、神様の子どもにしたい。そのような恵みと憐れみに満ちあふれた御心なのです。
 どうか、自分の理想的なメシアを追い求めるのではなく、あなたのために、命を捨てるほどに、あなたを愛して下さる救い主が、今、もう既に、あなたの近くにいてくださることを、喜びをもって受け止めていただければと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:58| 日記