2020年07月09日

2020年7月12日 主日礼拝説教「信仰のない時代」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書9章14節〜29節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書9章14節から29節の御言葉であります。主イエス・キリストは、次のように、語られます。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい」。
 主イエス・キリストは、弟子たちを、見つめながら、このように、厳しく語られます。なぜでしょうか。弟子たちが、「悪霊」を追い出せなかったからであります。
 元々、弟子たちには、自信がありました。自分たちが、主イエス・キリストの弟子であるということ。そして、かつて、悪霊を追い出した経験があるということ(マルコによる福音書6章以下)。ここに、自信の根拠があります。
 それでは、なぜ、弟子たちは、悪霊を追い出せなかったのでしょうか。28節から29節の御言葉をお読みします。「イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、『なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか』と尋ねた。イエスは、『この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ』と言われた」。
 恐らく、弟子たちは、祈りによって、「悪霊」を追い出そうとしたはずです。しかし、主イエス・キリストは、「祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われます。つまり、弟子たちの「祈り」は「祈り」ではなかった、ということになります。要するに、祈っていても、「正しく祈ること」ができなかった。あるいは、「信仰のない祈りをした」ということであります。
 「祈り」は、信仰者による「信仰の表現」でもあります。どのような信仰を持っているか。それが、祈りを通して表現されることがあるのです。
 しかし、信仰者は、その祈りにおいても、罪を犯すことがあるのです。失敗をすることがあるのです。信仰を表現するはずの祈りに問題が、起きてしまうことがあるのです。
 それは、なぜでしょうか。信仰そのものに問題が起きているからなのです。それ故に、主イエス・キリストは、「正しく祈ることのできなかった弟子たち」に向かって、「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれたのであります。正しい祈りがない、ということは、正しい信仰がない、ということなのです。正しい信仰が、ないところには、正しい祈りもない、ということなのであります。少し、厳しい言い方になってしまいました。
 勿論、祈りは、自由な部分もあります。自分の悩みや呻きや思いを祈ることは、間違いではありません。しかし、正しい信仰に基づく祈りを捧げなければ、それは、もはやキリスト教でなくても良い、という話にもなるのです。キリスト教の信仰を表現する祈りである以上、キリスト教の信仰の上に立って祈ることが大切なのだ、ということになるのです。
 それでは、弟子たちは、どこを間違えたのでしょうか。それは、この弟子たちの問いかけの言葉から、既に、表されています。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」という問いかけです。
 「なぜ、『わたしたちは』出来なかったのか」という問いかけです。つまり、弟子たちは、「わたしたちが出来ること」だと思っていた、ということなのであります。この働きは、私達に出来ること、私達がやること。そのような理解の上で、祈りを捧げたのであります。即ち、自分たちの働きの中に、神様を参与させるための祈りだったのであります。悪い言い方をするならば、自分たちの働きのために、神様を利用した祈りだった。そうとも言えるかも知れません。その意味で、この働きは、神様の救いを証しすることが目的ではなく、自分たちの才能や力を証する場になっていた、ということでもあるでしょう。そこには、神様との正しい関係が、成立していません。故に、彼らは、正しい信仰の上で、祈りが捧げられていなかった。だから、「信仰のない時代」だと言われてしまうのであります。
 救いの働きは、あくまでも神様の働きなのです。神様の力なのです。神様の可能性なのです。神様が、私達の働きの一端を担っているのではないのです。私達が、神様の救いの働きの一端に参与させて頂いているのです。その意味で、弟子たちの祈りは、正に、神様と人との立場を逆転させた祈りであった、ということなのであります。そこに、彼らの問題があり、その所で、祈りが、聞かれることがなかったのだということなのです。
 そして、それ故に、主イエス・キリストは、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われたのだろうと思います。本当の救いの働きが、どこから来るのか。そのことを示すためだったのだろうと思うのであります。
 「信仰をもって祈る」ということは、何でしょうか。文字通り、「神様を信じて祈る」ということです。それは、違う見方で申し上げるならば、自分の無力さをさらけ出し、自分の不可能性を認め、自分の不確かさを受け止め、神様の働きに、全てを委ねる。そのところから始まるのであります。矛盾しているかもしれませんが、信仰を持って祈るということは、自分の不信仰や不確かさを認めて、ただただ、主の可能性に向けて、主に向けて扉を開くようなものなのであります。
 今年度の教会標語が示していることも、正に、そのようなことなのであります。祈りとは、扉を叩き続ける救い主に、扉を開くことです。なぜ、扉を開くのでしょうか。救い主にこそ、可能性があると知っているから。自分の側には何もないことを知っているから。だから、救い主を迎えるのであります。
 どれだけ、沢山、祈りを捧げていても、どれだけ、美しい言葉で祈ることが出来ていても、自分の働きの枠へ、神様を参与させるだけの祈りであるならば、それは、祈っていても祈っていないということに他ならなくなるのであります。
 それでは、「信仰を持って祈る」ということについて、更に深く踏み込んでみたいと思います。21節から24節の御言葉をお読みします。「イエスは父親に、『このようになったのは、いつごろからか』とお尋ねになった。父親は言った。『幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。』イエスは言われた。『【できれば】と言うか。信じる者には何でもできる。』その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」。
 この父親も、息子と同様、大変苦しい時を過ごしてきたことでありましょう。「おできになるなら、『わたしども』を助けてください」と語っています。息子だけではない。父親もここで苦しんでいる。助けて欲しいと願っている。正に祈りの言葉です。
 しかし、そのような心とは裏腹に「できれば」という言葉を使う。今まで、散々、期待を裏切られたのかもしれません。医者にも期待を裏切られ、弟子にも期待を裏切られた。今、この父親は、主イエス・キリストに期待をしながらも、このような絶望感や諦めに押しつぶされながら、このような言葉を使ったのだろうと思います。
 しかし、この父親の問題は、正に、ここにありました。この父親は、「できれば」と言います。つまり、「できない」可能性も考えた、ということです。これは、神様の全能性を否定することになります。自分の経験に基づいて、導き出された可能性の枠の中だけで、主イエス・キリストの可能性を考えたということです。自分が思いつく可能性の中だけで、救い主を信じる。これは、本当の信仰ではないだろうと思うのです。
 このような心の持ち方は、私達の現実と決して無関係ではないことを深く思わされるものです。自分の経験や自分の感情の中で、神様の可能性を限定してしまう。神に出来ることと出来ないことを分けて考えてしまう。そういうことは、私達の内にもあるかもしれません。
 例えば「どうも、あの人が、教会に来るなんて信じられない」とか。「こんな苦しいことがあったのに、神様は、何もしてくれない」とか。「こんな自分が変えられることなど、神様はできない」とか。「もう、こんな自分を、神様が救ってくれるとは思えない」とか。自分の中で、救い主の出来ることを限定してしまう。自分の考える可能性の中だけに、救い主を限定してしまう。そういうことは、誰にでも起こり得ることなのかもしれません。
 しかし、主イエス・キリストは、ここで「信じる者には何でも出来る」と言われます。そして、この主イエス・キリストの言葉に対して、この父親は、次のように語ります。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と。
 矛盾した言葉ではないでしょうか。「信じます」と言いながら、「信仰のないわたしを助けてください」と言うのです。矛盾しています。しかし、実は、ここにこそ、信仰や祈りの本質が隠されていると言えるかもしれません。
 この父親は、自分が、どんなに信じていたとしても、その信仰は、決して正しい信仰ではない、ということを認めています。私は、信じている。しかし、そんな私の信仰は不確かな信仰なのだ、ということを認めている。実は、これが大切なのです。
 信仰を持つということは、自分の不信仰さを認め、自分の不確かさを認め、ただ一人の真実で正しい御方に、その自分を明け渡すことなのです。
 矛盾しているかもしれませんが、はっきりと言います。信仰を持つということは、立派なお祈りをする人のことではありません。信仰を持つということは、誰よりも聖書の知識を持っている人のことではありません。信仰を持つということは、誰よりも、自分が不信仰であることを認め、ただ一人の、正しく生きる御方にすがりつき、支えられながら立つ人のことなのです。
 主イエス・キリストは、「信じる者は何でも出来る」と言います。この父親が、信じるものになれば、何でもできる、という意味ではありません。この「信じる」という言葉は、「真実」という意味があります。「真理」とも言えるでしょう。つまり、真実な者、真理に生きる者、その人には、何でも出来る、ということなのです。
 つまり、この「信じる者」とは、主イエス・キリスト御自身のことなのであります。主イエス・キリストこそが、「信じる者」なのです。「真実に生きる御方」なのです。この御方だけが「真理」なのであります。
 この父親は、「信じます」と言いました。何を信じるのでしょうか。主イエス・キリストが、「信じる人」であり、「真実に生きる御方」であり、「真理に立つ者」であることを信じたのであります。イエス・キリストだけが、真実な御方であることを信じたのであります。
 自分は、不信仰でしかない。不確かでしかない。けれど、この御方だけは真実であり、真理で有り続けてくださる。だから、この御方には何でも出来る。だから、不信仰であるこの私を助けてほしい。不確かで、何も出来ない、この私と繋がっていて欲しい。ただ一人、真理に立ってくださる、あなたに、共にいて欲しい。助けて欲しい。支えて欲しい。そのような告白が、ここでなされているのであります。
 主イエス・キリストだけが、ただ一人、罪のない、神の真実と真理に生きる御方であります。正しい御方であります。その御方の前で、自分の不信仰を認め、その御方に自らの身を委ねていく。それが、信仰であり、そこに祈りの本質がある。そして、その信仰と祈りによって、救いの御業が行われるのであります。私達の信仰が確かだから、救いが得られるのではないのです。私達は不確かでしないけれど、私達と共に生きてくださる方が、真理であるからこそ、救いは行われるのであります。
 私達は、ここで改めて信仰について、祈りについて、思いを馳せる時が与えられました。そして、自らを振り返るならば、自分自身の不確かさ、不信仰さに気づかされる思いがします。しかし、自らの不信仰に気づかされるところから、ただ一人の真実の御方に依り頼む心が生まれてくるものです。
 「いつまで我慢しなければいけないのか」という言葉も、怒りに満ちた言葉では、決してありません。自分の力で、何かをやり遂げようとしてしまう、この私達に対して、主イエス・キリストは、「まだ、自分で頑張ろうとしているのか」「まだ、強がっていないか」「まだ、自分の重荷を、自分で担っていたいのか」「もう良いではないか。その重荷を、私に預けたら良いではないか。それをわたしが担うのだ」と、愛をもって、激しく語られるのであります。
 不信仰であること、自分が無力であることを知ることは、自分の重荷を、主に委ねて良いということを、知ることでもあるのです。私達の重荷を背負っていく救い主は、十字架の道を、忍耐して、忍耐して、我慢して、歩み続かれます。自分の命を捨てるほどに、私達を大切に思ってくださる。その御方が、今、あなたの重荷や痛みや苦しみや弱さを背負いたいと、激しい言葉で、私達を担いたいと、そのように、言ってくださるのです。その幸いに共に思いを馳せつつ、共に信仰生活を歩みたいと思います。

〇祈り
天の父なる神様、新しい御言葉の恵みに深く感謝を申し上げます。祈ることにおいても、罪深い、私達を、どうか、憐れんでくださり、ただ一人の真理であられる、御子イエス・キリストに、私達の全てを明け渡し、御子に支えられながら生きる、信仰生活へと私達を改めて導いてください。全てのことを感謝し、委ねて、このお祈りを主イエス・キリストの御名によって、おささげいたします。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:11| 日記