2020年08月07日

2020年8月9日 主日礼拝説教「キリスト者として生きる」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書9章42節〜50節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書9章42節から50節の御言葉であります。今朝の御言葉は、とても、難しい御言葉です。何よりも、語られた文脈が、バラバラであります。
 まず、「小さな者をつまずかせることが、罪である」という話をします。そして、次に、「自分をつまずかせるものを切り捨てなければ、地獄に落ちる」という話になります。そして、「地獄では、蛆が尽きることも、火が消えることもない」という話になり、最後には、「人は皆、火で塩味を付けられる」という話になるのです。脈略もなく、よく分からない話ではないでしょうか。連想ゲームのように、僅かな単語が、多少は、連結していますが、文脈に繋がりを見出しにくい話なのであります。だから、分かり難い、難しい御言葉なのであります。
 しかし、この御言葉を、もう少し深く掘り下げて耳を傾けていくと、バラバラのパズルが完成していくように、繋がりが見えて参ります。今朝は、その繋がりに注目して、共に御言葉に聴いて参りたいと思います。
 改めて、42節の御言葉をお読みします。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。
 ここでは、大変、厳しく、恐ろしい言葉が使われています。ここで、問題になっていることは、何でしょうか。それは、「つまずき」ということです。「つまずき」とは、どういう意味でしょうか。これは、「信仰の挫折」、「信仰を失ってしまう状態」。このことを指しています。信仰をもっている人が、何かに躓いて倒れてしまう。歩き続けることができなくなってしまう。そのような状態です。つまり、主イエス・キリストは、ここで、誰かの躓きになってしまうことは、計り知れない大きな罪である。そのように警告していることになるのです。
 この警告は、主の弟子たちに、向けられた警告です。つまり、主イエス・キリストを信じて、従う人々の間で、他人を躓かせる。そのようなことが起きてしまう。そのことを警告しているのです。確かに、厳しく、恐ろしい言葉による警告です。しかし、この言葉も、主の言葉として、真剣に受け止めなければいけないだろうと思います。
 それでは、この「つまずき」とは、どうして、起こるのでしょうか。ここで重要なことは、「つまずく」のは、「小さい人」であるということです。つまり、大きい人が、小さい人をつまずかせてしまう、ということであります。これが、「つまずき」の基本的な構造となります。
 言い方を変えるならば、信仰の強い人が、信仰の弱い人をつまずかせてしまう、ということでしょうか。但し、ここで、気を付けなければいけないことがあります。もし、信仰の強い人が、信仰の弱い人を、つまずかせてしまうのであるならば、「信仰が弱くなれば良い」という考えになるのです。そうなりますと、信仰者が成長する、ということもなくなるだろうと思います。
 そうでありますから、ここで言う「信仰の強い人」とは、「信仰を強く大きく見せようとする人」という意味であります。教会の中で、あるいは、クリスチャンの人間関係の中で、主の弟子集団の中で、自分を、大きく見せようとする。強く見せようとする。立派な姿を見せようとする。人々に評価され、認められることを、望もうとする。そのような人が、小さな者、弱い者を、つまずかせる。そのようなことがあるのだ、ということなのです。
 それは、なぜでしょうか。自分を、強く、大きく見せようとするためには、何が、必要でしょうか。「比較対象」です。誰かと比較をすることで、自分の大きさが、目立つのです。自分を大きく、強く見せるためには、自分よりも小さな者と、自分を比較する必要があるということなのです。言うならば、自分を強く、大きく見せるために、人間は、必然的に、小さい者を造り出す傾向があるのだと言えるのかもしれません。
 このように、自分を大きく、強く見せるために、小さい存在、弱い存在を造り出し、その人の信仰や生き方を否定することで、自分の正しさや大きさや強さを強調してしまうことがあるのです。
 しかし、もう一方で、「大きくなりたい」「強くなりたい」という心は、「熱心さ」「真剣さ」「情熱」や「向上心」という、前向きで、熱い気持ちの表れでもあると言えるかもしれません。それが、否定されては、いけないだろうと思います。
 しかし、その人が、たとえ望んでいなかったとしても、そのような、熱い心によって、小さい者を造り出し、小さい者を躓かせてしまう。そういうこともありえるのだ、ということ。そのことが、ここで、厳しい、警告として示されているのです。
 それでは、私達は、信仰生活において、「熱心な心」を捨てたら良いのでしょうか。それも違います。信仰生活における「熱心さ」が、否定されているわけではないからです。
 大事なことは、信仰生活において、キリスト者において、どのような熱心さが、大切であり、必要なのか、ということなのであります。私達の熱心な信仰生活が、誰に、どこに、向かった熱心なのか。それが、ここで、大切なことなのであります。
 そのことを示しているのが、次の43節から48節の御言葉なのであります。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。
 ここでもまた、「つまずき」について記されています。しかし、問題は、他人をつまずかせることではありません。ここでの問題は、「自分がつまずく」ということです。自分をつまずかせるものは、切り捨てなさい。そのような警告が、ここで示されているのです。
 しかし、ここで注意しなければいけないことがあります。それは、この御言葉は、決して、つまずいた小さい者に対して、「頑張れ」「立ち上がれ」「躓いたお前が悪いんだ」という話ではない、ということです。
 この御言葉のポイントは、小さい者をつまずかせてしまった。その人自身が、実は、誰よりも、そこで、つまずいているのだ、ということなのであります。先ほども申し上げましたが、「つまずき」とは、信仰を失っている状態のことです。神様との関係が崩れてしまった状態です。つまり、小さい者をつまずかせてしまった人も、そこで、信仰を失っている。神様との関係が崩壊している。そのことに気を付けなさい、そのことに気づきなさい、ということなのであります。そのことを踏まえた上で、この箇所は読まれるべきなのであります。
 私達が、信仰において、励むべきことは、何でしょうか。努力すべきことは、何でしょうか。豊富な知識を得ることでしょうか。人よりも立派な奉仕をすることでしょうか。それは違います。一番、大事なことは、「つまずかない」ということなのです。何があろうと、どのような悲しみや痛みがあろうと、どんな目にあっても、信仰を持ち続けることであります。 
 つまり、言い換えるならば、つまずかない信仰とは、神様と自分の関係を保ち続けることです。神様との関係の中で、神様にしがみついて立ち続ける。そこにつまずかない信仰があるのです。私達が、熱心に励むべきことは、ここになければいけないのであります。 そして、神様との関係が、しっかりと、確立されていない時、私達は、人の評価を気にするようになります。本来ならば、神様が、自分を認めていてくださる。それだけで十分なのです。本来ならば、神様だけが、自分を価値あるものとしてくださっている。それで十分なのであります。それにも関わらず、この恵みを忘れ、神様との関係が、崩れてしまう時、人は、神様から認められることよりも、人から認められることを優先してしまうのです。人の目を気にするようになるのです。評価を気にするようになる。だから、強く見せたがる。そして、先ほども申し上げたが、小さい者をつまずかせてしまう。そのような生き方へと向かってしまうのだ、ということなのです。
 それでは、つまずかない信仰は、どのようにして、保つことができるのでしょうか。それは、つまずきとなるものを、切り捨てることです。手や足や目が、つまずきを与えるのであるならば、それを切り捨てる、ということです。
 私達にとって、手も足も口も、どれも大切な働きをします。これらは大切なものです。何よりも、私達は、熱心に励み、努力するために、手や足や目を使うのであります。
 しかし、そのような生活の中で、気づかないうちに、自分が中心になる。自分しか見えなくなる。自分を大きくみせるために、強く見せるために、持っているものを、使ってしまうことがある。そうであるならば、切り捨てたほうが良い、と言われているのです。
 つまずきになるものを、切り捨てると、私達は、どうなるでしょうか。今まで通りに、熱心に努めることができなくなります。自分の働きや業績が、振るわなくなります。今までよりも、弱く、小さくなります。
 しかし、主イエス・キリストは、その弱さに、生きることを、ここで奨めているのであります。なぜでしょうか。その弱さに、私達が生きる時、私達は、そこで、主の恵みなくして生きられない自分を知ることができるからであります。主の恵みだけを望むようになるからです。主との関係が、しっかりと確立しなければ、自分が、歩めないことを知るからであります。
 つまり、つまずかない信仰、つまずかせない信仰とは、自分の手の業を止め、自ら小さいものとなり、神様の恵みに、しがみついていくところで、初めて、生まれてくるものなのであります。
 そのことを踏まえた上で、次の48節から50節の御言葉をお読みします。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。
 ここでは、「塩」という言葉が、用いられています。「塩味のついた人として生きる」。それが大切であると示されています。「塩」は、生活の必需品です。なくてはならないもの。生活を支えるものです。ある人は、昔、ローマの兵士が、給料の代わりに、塩をもらっていたと言っていました。本当に、貴重なものであり、必要なものであり、言うならば、「恵み」のようなものであると言えるかもしれません。
 例えば、コロサイの信徒への手紙4章6節には、「塩で味付けされた快い言葉」という表現が出て参ります。この「快い」という言葉は、「恵み」という意味もあるのです。つまり、「塩で味付けされる」という言葉と「恵み」という言葉が、同じ意味で使われていることになるのです。その意味で申し上げるならば、ここで言われている「塩」も、やはり、「神様の恵み」そのもののことを表している。そのように言えるかもしれません
 私達は、時々、自分の働きや熱心さ、名誉や権威で、自分の人生を味付けしようとするかもしれません。しかし、そのような人生が、実は、一番、味気のない人生であると言われているのかもしれません。そして、その人生は、時に、人を排除し、傲慢にし、平和を破壊することに通じているのだろうと思うのです。
 大事なことは、自分自身の内に「塩」を持つということであります。言い換えるならば、神様の恵みにしがみつき、その恵み生かされ、その恵みに満ち溢れて生きるということであります。その意味で、この御言葉も、先ほどの「小さい者として生きる」「弱さに生きる」ということと無関係ではないと言えるのであります。
 それでは、どうやって、私達に、「塩味が付けられる」のでしょうか。聖書によれば、「火」によって、「恵みの塩味が付けられる」のであります。
 私達が「火」から連想するものは何でしょうか。43節や48節には、「火」とは、地獄の火であると言われています。罪人を裁くための火です。
 しかし、ここでは、神様の恵みを与える「火」について語ります。この二つの矛盾した事柄が、どこで接点となるのでしょうか。
 それが、主イエス・キリストなのであります。主イエス・キリストが、十字架に架けられる。そこで、罪なき罪人として、身代わりとして、裁かれる。それ故に、私達は、神様の恵みに生かされる。神様の恵みに満たされて生きることができるのであります。その意味で言うならば、石臼を首に懸けられることも、それは、主が引き受けて下さった裁きであります。
 この救いを受けた私達は、もう、自分の働きや業績に縛られたり、それによって人生を味付けしようとする必要はないのです。神様の目に良いものとして、貴重なものとして、必要な存在として、受け止められているからであります。
 私達は、主イエス・キリストが、身代わりとなって、火で焼かれることを通して、神様の恵みに捉えられている。神様によって命を得ている。恵みを得ている。裁きから解放されている。それぐらい、私達は、価値あるものとして受け止められている。
 そうであるならば、私達もまた、他者と比較したり、裁いたりすることからも解放されているのではないでしょうか。この神様の恵みに寄りすがりながら、生きられる時、自分がつまずくことからも、他人をつまずかせて生きることからも、解き放たれて、新たに生きることができる。その幸いを、ここで深く味わい直すことが出来るのです。大切なことは、自分は、神様の恵みなくしては生きられないことを知ることです。そして、その恵みは、私達の為に、惜しみなく御子を死に渡されるほどに、私達に価値を生み出してくださる、神様の愛に満ちています。この恵みに、何度でも立ち帰って良いのです。そして、その恵みの中で、神と人と共に歩む、人生を、何度でも、歩み直すことができるのです。

天の神様、新しい御言葉の恵みに感謝します。あなたから、多くの恵みを頂き、救いの光の中を歩ませて頂いているにもかかわらず、自分勝手な歩みを進めてしまう、私達の罪を赦して下さい。そして、どうか、改めて、私達を御言葉と聖霊の力によって、私達を清めてくださり、神と隣人を愛するものへと導いてください。何よりも、自分のことばかりを考え、他の人のことも、あなたのことも、正しく見つめることのできない私達に、恵み塩である御言葉を与え続けてくださり、あなたの恵みへと立ち帰り、自分の価値を、主が見出して下さっていることの幸いを味わうものとしてください。すべてのことを感謝し、全てのことをあなたに委ねて、このお祈りを、主イエス・キリストの御名によって、おささげいたします。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:59| 日記