2021年01月09日

2021年1月10日 主日礼拝説教「耐え忍ぶ者は救われる」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書13章1節〜13節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書13章1節から13節の御言葉であります。マルコによる福音書13章は、「小黙示録」と呼ばれています。つまり、主イエス・キリストによって語られた「世の終わり」に関する御言葉であります。
 キリスト教は、「世の終わり」即ち「終末」を信じる宗教です。そもそも、キリスト教で、「時間」は、神様によって創造されたもの、即ち、被造物であると信じています。「時間」は、輪廻転生のように、グルグルと回転するものではありません。それが、被造物である以上、時間にも、初めと終わりがある。言うならば「直線」であると信じています。主イエス・キリストは、この「時間」の「終わり」について、ここで語って下さるのです。
 皆さんは、「世の終わり」という言葉を聞くと、どのようなイメージを持たれるでしょうか。どこか、絶望的なイメージがあるでしょうか。不安になるイメージを抱かれるでしょうか。あるいは、どうせ、いつか世が終わるなら、今を楽しんだ方が良い。そのように、楽観的に捉える方もいるかもしれません。
 しかし、いずれにせよ、私達は、「世の終わり」とは、何かを失うこと、何かをなくすこと。そのようなイメージがあるのではないかと思うのです。確かに、世の終わりとは、そういうものであると言えるかもしれません。
 今朝の御言葉によると、主イエス・キリストは、少し、恐いことを語っています。要約してお伝えをしますと、「嘘の教えが流行すること」「戦争が起きること」「地震や飢饉などの災害が起こること」「迫害が起きること」「人間関係が破滅していくこと」。あるいは、13章1節の御言葉によると「神殿が崩壊すること」も含まれています。
聞いているだけで、いやな気持になります。不安になります。主イエス・キリストは、このような厳しいことを、世の終わりの「前兆」として、語っておられます。こういう話を聞くと、気持ちが悪くなります。とても、不安な気持ちになります。悲しい気持ちになるものです。
しかし、よく見ますと、このような悲惨な出来事が、「世の終わり」ではないのだ、とも語られています。それは前触れであって、決して、世の終わりではない、ということであります。
それは、言い換えるならば、そのような苦難を超えた、その先に、本当の終わりがあるのだ、ということなのであります。更に、言い方を変えるならば、このような苦難は、永遠には続かないのだ、ということです。苦難のままでは終わらない、ということであります。必ず、最後には、涙が拭い去られる。その時が来るのだ、ということなのであります。つまり、私達は、失うことよりも、もっと大きな救いが、苦難の先に約束されているのだ、ということなのであります。
よくよく思い返してみるならば、主イエス・キリストが語られた、恐ろしい前兆。これらは、もうすでに、起きたことであり、今も起きていることであります。
エルサレムの人々が拠り所としていた、神殿は、主イエス・キリストの予告通りに、紀元70年に崩壊しました。今も昔も、「偽メシア」や「偽りの教え」は流行しています。戦争がない時代など、一度もありません。地震や飢饉、あるいは、今で言うところのコロナ・ウィルス。そのような災害は、今でもあります。信仰を脅かすほどの迫害や、人間関係の破滅。これもまた、今の私達も経験することであります。
つまり、今、ここで、主イエス・キリストが語られた悲惨な御言葉は、私達の歴史で既に起きたことであり、同時に、今も、私達の現実の中で起きている。そういうことなのであります。そうでありますから、私達は、この御言葉を今のこととして聞いていくことが大切なのであります。今、正に、大きな苦難が、私達を支配している。この世においては、この苦難が、私達の間で勝利を収めているということなのであります。
しかし、主は、ここで約束してくださるのです。それが、本当の終わりではないのだと。それは、産みの苦しみでしかない。その先に、本当の希望と勝利がある。新しい命がある。最後の最後に、神様の勝利を見上げることができる。最後の最後は、神様の勝利で、全てが過ぎ去っていくのであります。
今は、悲しみや不安が多いかもしれない。今は、痛みや苦しみの多い時代かもしれない。しかし、明けない夜はない。上がらない雨はないのであります。創世記は、「混沌」から、話が始まります。そこに「光あれ」という、神の御言葉が語られるのであります。今は、正に、混沌な時代なのかもしれません。しかし、その混沌な世界を切り裂いて、神様の光が、神様の御言葉を通して、この世の全てを照らす時がくる。それが、この悲惨さ指し示す御言葉の背後に、示されていることなのであります。
大切なことは何でしょうか。その日を、信じて、待ち望むことなのであります。本当に、私達を支配しているのは、いかなる苦難ではない。いかなる苦難が来ようとも、神様の救い、神様の愛から、私達を切り離すものは、決してない。だから、大事なことは、ただ、この神様の約束を信じて待つこと。そして、そのために、私達が、いつでも、正しい福音に耳を傾け続けていく。それが大切なことなのであります。
今、私達は、コロナ・ウィルスという、見えない存在に、脅かされています。滋賀県が警戒レベルを引き上げ、ステージ3になりました。近くの病院や施設で、クラスターが発生し、いよいよ、今までよりも、私達の身近な問題になっています。滋賀県だけではなく、全国においても、そうであります。
その影響を受けて、私達の礼拝もまた、今は制限されています。会堂に来たくても、こられない人がいます。主を賛美したくても、賛美ができない人がいます。信仰を告白しても、大きな声で、告白が出来ない人がいます。聖餐を受けたくても、受けられない人がいます。
これは、私達にとっては、信仰的緊急事態であります。ウィルスという存在による、災害であり、迫害であるともいえるかもしれません。
信仰がある故に、会堂に来られない日々に痛みを感じることがあるかもしれません。家族から止められながら、後ろめたい気持ちで会堂に向かってきた人もいるでありましょう。この不安を埋めるために、偽りの教えに耳を傾けたくなることもあります。今まで、当たり前のように、より頼んでいたものが、ガタガタと崩れていくことを経験した人もいるかもしれません。全ての人に御言葉を届けたくても、それが妨げられることも、これからあるかもしれない。
しかし、主イエス・キリストは、ここで言われています。「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と。そして、「話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」と。どのような苦難が来ようとも、福音は、止まらない。救いの御言葉は、決して止まることはない。それは、聖霊に働きを通して、前進し続けているのであります。どんな状況に立たされていても、神様が、聖霊によって福音を語り続けることを、止めることはできないのであります。
制限された礼拝の中で、全てが止まってしまっているかのように思います。しかし、実は、福音は前進し続けているのであります。飢え渇き、心に貧しさを抱えて生きる一人ひとりに、この時も、確かに、福音は届けられているのであります。
失うものが多いかもしれません。今だけではなく、これからも。しかし、そこで、救いの御言葉、福音は残り続ける。
いや、それだけではありません。苦難の先に、真の希望がある。真の平安がある。苦難は永遠ではない。神様こそが、永遠であってくださる。その恵みの中に、私達も入ることが許されている。その大きな約束は、取り去られることなく、与えられているのであります。失うことよりも、更に大きな恵みが、ここで約束されている。その幸いが、ここで示されているのであります。
当時のエルサレム神殿は、人々にとっては、目に見える拠り所でありました。人々は、その神殿の中で、犠牲の捧げものを携え、神様から罪の赦しをいただいていました。しかし、主イエス・キリストは、その神殿が崩壊することを予告します。
これは何を意味しているのでしょうか。目に見えるものは、いつかは過ぎ去っていくかもしれない。そして、そこで、人間が、財産をなげて捧げる、その犠牲礼拝にも、終わりが来るかもしれない。
しかし、そこにキリストの十字架が、新たに立つのであります。キリストが、私達のために犠牲を払われるのであります。そこで、救いが完成するのであります。もう、目に見えるものに依り頼む必要はないのです。自分の財産をささげて、罪の赦しを獲得する必要はないのであります。キリストが、そこで、ご自身を犠牲にされた。そこで、罪の赦しを完成された。キリストが、私達のために忍耐をし、耐え忍んでくださった。そこに救いがある。そこに愛がある。
この愛は、この救いは、いかなる苦難が来ようとも、決して取り去られることはない。キリストの苦難と忍耐によって与えられた、この救いは、決して取り去られることはない。
だからこそ、私達は、苦難が永遠ではないことを、今日も知ることができる。忍耐しなければいけない、我慢をしなければいけない現実の先に、それでも残り続ける希望があることを知っているからであります。
今は、本当に我慢が強いられる時代となりました。しかし、それが永遠に続くわけではありません。そして、その苦しみの中でも、福音は、前進し続けている。聖霊を通して、私達は、一人ではなく、主と共に生きられる。その幸いを深く心に留めながら、新しい一週間の歩みをなすものでありたいと思います。

天の神様、新しい御言葉の恵みに、深く感謝を申し上げます。コロナ・ウィルスの影響を受けて、様々な所で、制限がかけられ、そして、私達の心もまた、不安に支配される日々を過ごしています。いつ、終わりが来るのか。いや、もう終わりだと、膝をつきたくなる現実を生きる私達です。どうか、この中にあってもあなたが、福音を示し続け、約束を心に留めておられることを信じるものとしてください。今、痛みを負う全ての人々に、どうか、あなたの福音が、確かに届きますように。すべてを感謝し、全てを委ねて、このお祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:17| 日記