2021年02月27日

2021年2月28日 主日礼拝説教「主は働いておられる」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書5章9節b〜18節

 本日与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書5:9b-18です。主イエスが行われた3つ目の「しるし」、38年間病を患っていた人を癒されるという物語です。先月は、その前半部分をご一緒にお読みしました。本日は後半の部分を共に読んで参りたいと思います。
 エルサレム神殿の側に、ベトザタと呼ばれる池を取り囲むようにして、病の人々が集まる5つの回廊がありました。ベトザタの池には不思議な言い伝えがありました。水が動いた時一番に池に入った者が癒されるという言い伝えです。その回廊に集まった人々は皆、その言い伝えを信じて、池の水面が動くその時を待っていたのです。
 池の名前「ベトザタ」を直訳しますと、「いつくしみの家」となります。病を煩う者、傷ついた者たちが神様のいつくしみの中に入れられて憩いのうちに住まう所。本来はそのような場所であるはずだった。しかし、皆お互いをいたわるどころか、我先に水へ入ろうと目を光らせあっていた、心の中で自分が一番に癒されたいと競い合っていたのです。そして、彼らは、当時の人々からは虐げられるような弱い人々でありました。ユダヤ人の祭りの喧騒を遠くに聞きながら、そこに行くことも叶わずただただ死を待っていたのです。
 しかし、主イエスは、その場所へと立ち寄られました。救うべき人がここにいる。そのようにして主は、横たわる大勢の病人の中の、一人の人の元に歩み寄られ「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。(8節)」と言われたのです。するとたちまちその病の人が癒され、それまで自分が寝ていた床を担いで歩き出した、ここまでが先月お読みした物語でありました。本日の箇所はその続き、主イエスの癒しの出来事が起きて、その結果何が起こったかを伝えています。
 まず、「その日は安息日であった。(9b節)」と聖書は記します。主イエスが安息日に癒しの業を執り行われた、このことが、その後ユダヤ人の間で大きな議論となってゆくのです。そもそも安息日とは、旧約聖書創世記に記される創造物語に由来する日であります。創世記2:2-3には「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」と記されています。そして、本日お読みした出エジプト記20:8-11には、神様がモーセにさずけた十戒が記されています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの街の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
 この掟は古の時からずっと、ユダヤ人の守るべき大切な掟とされてきました。しかも、さらに具体的な細則が加わって、ユダヤ人はこの安息日のいくつもの禁止事項を厳格に守っていたのです。しかし、ユダヤ人たちの律法主義の悪しき部分を、主イエスは度々批判されました。律法主義は時として、律法を厳守しすぎるあまり不寛容さを生み、また、真の神への信仰を歪めてしまうことにつながっていたのです。律法を守ることにばかり気を取られ、真の神を見ていない、あるいは、律法を守る自分たちを絶対化し無意識のうちに神様の上に立とうとしてしまう。本日の聖書箇所においても、主イエスは、そのような律法主義的なユダヤ人たちの信仰に否を唱えるのです。
 ところで、本日の物語には主イエスとユダヤ人たちの対立関係の他に、もう一つの関係性が描かれています。それが、主イエスと病癒された人との関係です。この直前の物語は、王の役人の息子が主によって癒されるという、奇跡を伝えます。しかし、この二つの物語は同じ癒しの奇跡という主題を扱いながら、その登場人物と主イエスの関係性は全く対照的であるのです。
 王の役人は主のなされた癒しの御業を見て、彼もその家族も信じる者とされました(4:53)。一方で、病から癒された人は、癒しの御業を経験した結果、主イエスを信じたかというと、そうではありませんでした。彼は、安息日の律法違反を咎められた時、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです。」と言いました。わたしが自分の判断で床を運んでいるのではありません、と律法違反の責任を、主イエスに転嫁するのです。それどころか、そもそも彼は、自分を癒してくださった人が誰であるかを知らなかった、そのように聖書は伝えます(5:13)。
 しかし、主イエスはこの病癒された人に、神殿の境内で再び出会ってくださいます。その時、主イエスがこの人にかけられた言葉が、主の御心の全て表していると言えるでしょう。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない(14節)。」あなたは良くなった、健康になったのだ。しかし、その現実をもってしても未だ、あなたは父なる神様の方を向いていない、罪の内に未だに留まっている。このままではあなたは滅んでしまう。そのようにならないように、どうか、もう罪を犯さないでくれ。その主の深い悲しみと、どこまでもこの人を捉えようとしてくださる憐れみがこの言葉にはあるように思わされるのです。
 しかし、その後この人は、さらなる騒動の引き金となる行動へと向かってしまいます。彼は、「立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた(15節)。」そして「そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである(16節)。」と聖書は伝えます。
 17節には、主イエスが、更にそのことにお答えになった言葉が記されています。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」この言葉によって、ユダヤ人たちは、主イエスが律法を破ったことに加えて、神様を御自分の父と呼んで、御自身を神様と等しい者であると言われたことを、殺意を抱くまでに問題視してゆくようになるのです。その先に何が起こったか。それが主イエスの十字架の死であるのです。
 この箇所の直前にある、王の役人の物語は、主のなされたしるしを通して、信じるものが起こされてゆく物語でありました。しかし、本日の物語は、主のなされるしるしによって、十字架への道が示されていくのです。主イエスがこの人を癒されたのは、「起き上がりなさい。」という言葉によってでした。先月も説教の中で申しましたが、この「起き上がりなさい。」という言葉は、イエスが「死者の中から起き上がらせられた。」という復活の記事で用いられるのと同じ言葉であります。この病癒された人は、主イエスの言葉によって指し示される復活の希望に目が開かれていなかった。このお方こそ命の与え主であると、分かっていなかったのです。ヨハネによる福音書は、その冒頭で「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」と高らかに宣言する一方で、「暗闇は光を理解しなかった。」とも伝えます。命の光なる主は、この世から受け入れられることはありませんでした。結果、主は現実の死へと引き渡されていったのです。
 私たちは、この物語を読んで、この病癒された人を他人事のように思っているかもしれません。しかし、御言葉を深く読み味わおうとする中で、この病癒された人には、私たち信仰者の姿が映し出されているように思わされるのです。いや、むしろ、私たちこそ、主イエスから、どれほど「もう、罪をおかしてはならない。」と言われても罪を犯すことをやめない、主を十字架の道へと向けさせるほかない罪深い者なのではないだろうか。主イエスの十字架の御苦難を覚える受難節、レントの時を過ごす中で、私には、御言葉を通して深く、己の罪深さが指し示される気がするのです。
 この病癒された人は、結果として主イエスを十字架へと向かわせました。「もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」と主イエスは言われていました。もっと悪いこと、それは神さまの裁きです。にもかかわらず病癒された人は神様に向き直りませんでした。主イエスを見捨てるという罪を犯し続けました。しかし、その裁きを実際に受けられたのは、主イエス御自身でありました。この人のために主イエスは十字架でその裁きを一身にお受けになってくださったのです。
 そして、ここで今一度、主イエスの言われた17節の御言葉に心を向けたいと思います。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」ユダヤ教において安息日は神様が休まれた日でありました。その神様の安息を覚えて、人々も日々の仕事を離れその安息に憩うのです。しかしキリスト教は、主イエス・キリストの御復活を覚えて、その出来事が起きた日曜日を安息日と定めました。主イエスは十字架で死んで眠ったままではおられませんでした。神様の裁きの後、復活によって完全なる罪の赦しが示されたのです。三日目に死から復活されて、代々永久に生きて働かれている主イエス・キリストを礼拝する日、それが私たちキリスト者の安息日であるのです。主イエスは御復活なされた!もう起き上がって、今この時も働き続けておられる、この喜びの知らせを信じることで、私たちは自らの罪が赦されていることを知り、慰めと平安の内に真の安息を得させられているのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 19:36| 日記