2021年07月30日

2021年8月1日 主日礼拝説教「復活」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録2章23節〜36節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録2章23節から36節の御言葉であります。23節の御言葉をお読みします。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」。
 ここで、まず、示されていることは、何でしょうか。それは、私達の「罪の問題」です。それでは、「罪」とは何でしょうか。それは、「的を外すこと」であります。それは「中心を外してしまうこと」であります。言い方を変えて申し上げるならば、神様を中心にしないこと。あるいは、この自分が、中心になってしまうことであります。
 勿論、人によっては、「自分には罪がない」と、考える人もいるでありましょう。しかし、「自分には罪がない」ということは、「自分には悪い部分がない」「自分は正しい」と、このように、宣言することでもあるわけです。
 聖書において、真の正しい・義なる存在は、一人しかいません。それが、「神様」です。つまり、「自分には罪がない」と宣言し、「自分の正しさ」を訴えることは、自分を神と等しくすることにもなるわけです。それは、言い換えるならば、自分を世界の中心に据えることにもなるのであります。正に、そこにこそ、人間の深い闇が隠されているのではないでしょうか。
 このように、「罪の問題」は、決して、ユダヤ人だけの問題ではありません。ここで、御言葉を語るペトロを始め、ここで御言葉を聴く、私達もまた、例外なく「罪人」なのです。私達もまた、例外なく、神様の御心から離れ、キリストを十字架に架けてしまった一人なのであります。
 このように、教会は、主イエス・キリストの十字架の死について、語ります。それは、私達人間が、等しく、罪の支配下に生き、罪に翻弄され、罪から逃れられない。その事実を示すために他ならないのであります。
 しかし、ペトロは、ここで、もう一つの事実を示しています。即ち、この主イエス・キリストの十字架の死は、神様の御計画でもあった、ということです。私達人間が、神様の御心から離れ、救い主を拒み、十字架につけて殺したのです。しかし、その計り知れない大きな罪の出来事が、実は、神様の御計画の内に、置かれていたのだと、示しているのです。
 では、その「御計画」とは、何でしょうか。それは、「救いの御計画」です。「恵みの御計画」です。あるいは、「赦しと和解の御計画」であります。つまり、主イエス・キリストの十字架の死によって、この神様の救いの御計画が、実現した。そのように、ペトロは、ここで、十字架の死における、もう一つの事実を明らかにしているのであります。
 主イエス・キリストの十字架の死によって、神様の救い・神様の赦しの御計画が、実現した。それは、つまり、御子イエス・キリストの十字架の死が、私達人間を救うために、そして、私達を赦すために、その御計画を、確かに遂行するために、そのためには、必要なことであった。そのことを、示しているのであります。
 主イエス・キリストの十字架の死が、神様の救いの御心であるならば、あの十字架の死には、どういう意味が込められているのでしょうか。それが「身代わりの死」という意味です。  
本来ならば、罪ある者が−本来ならば私達が−、裁かれ、十字架に架けられ、死ぬべきなのです。しかし、罪のない救い主が、十字架に架けられた。それは、救い主が、私達の罪を背負い、罪人の代表となられ、身代わりとなって、裁かれた。その事実を表しているのであります。神様は、そのような仕方で、私達を救うことを、その御計画の内に、入れておられたのであります。
 教会は、主イエス・キリストの十字架の死を伝えます。しかし、それは、ただ、人間の罪を語るためだけではありません。この人間の罪が、こうして極まるところにこそ、実は、神様の救いの極みもまた、豊かに明らかにされるためなのであります。
 続いて24節の御言葉をお読みします。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」。
 主イエス・キリストが、私達の救いのために、身代わりとなって、十字架に架けられました。そのことによって、神様の救いの御計画が、成し遂げられました。
 しかし、それで、全ての計画が、終わったわけではありません。もし、十字架の死で、全てが、終わるとするならば、それは、いわゆる「良い話」「人のために命を捨てた偉人伝」でしかないのです。そして、私達は、この歴史の中で、そのような仕方で、人々のために、犠牲を払った偉人の話を、よく知っているのであります。確かに、そのような話には、私達を一時でも感動させる力はあります。しかし、その話そのものが、私達の救いの決定打には、なり得ないのです。
 大切なことは、主イエス・キリストの十字架の死が、この私達にとって、本当の救いとなり、赦しとなり、喜びとなることです。そして、私達自身が、その救いの光の中で「新しく生きる」ということなのであります。私達自身が、その恵みの中で、「新たに生かされる」ということです。罪を赦された、その一人ひとりが、新しく生きる、新しく生かされる、ということ。古い自分が死に、新しい命を生かされるということ。それが、実は、とても大切なことなのであります。
 それでは、神様は、そのために、何をしてくださったのでしょうか。「主イエスを復活させられた」のであります。そして、これもまた、十字架の死に続く、神様の救いの御計画の一つなのであります。
 神様が、主イエス・キリストを、復活させてくださった。そのことを通して、主イエス・キリストは、罪と死に勝利された。もし、十字架の死だけで、全てが終わるとするならば、主イエス・キリストは、結局、人間の罪と死に敗北した。それだけの人でしかありません。ある人にとっては、感動話ですが、ある人にとっては、愚かな話でしかないのです。そして、そこには、私達を決定的に救う要素はないのです。そこには、本当の希望はないのです。
 しかし、神様は、主イエス・キリストを復活させられた。そのことによって、主イエス・キリストは、罪と死に勝利された。このキリストに結ばれることを通して、私達もまた、キリストの勝利に与ることが許されている。古い自分が死に、罪と死から解き放たれて、新しくされ、神の民として、永遠に生きることが許されている。その幸いが、復活によって、具体的な仕方で実現しているのであります。ここにもまた、神様の救いの御計画があるのです。
 そして、この復活の光の中でこそ、あの主イエス・キリストの十字架の死が、いかに恵みであったか、いかに幸いであったか、ということにも気づかされていくのではないでしょうか。十字架なくして、復活はありえません。しかし、復活がなければ、十字架の恵みもないのです。
 さて、もうお気づきかとは、思いますが、今朝の御言葉で大切なことは、何でしょうか。それは、「神様の救いの御計画」であります。全てが、神様の御計画の通りであった、ということであります。言い換えるならば、神様の救いの御計画は、変わることはないのだ、ということ。神様の救いの約束は、決して、変わらないのだ、ということなのであります。このことが、今朝の御言葉を、更に、味わい知るための鍵となるのです。
 ペトロは、この事実を明らかにするために、いくつかの旧約聖書を引用しています。例えば、25節から32節の御言葉は、詩編16篇の引用です。ここで歌われていることは何でしょうか。それは、「私は神様によって、死から解放された。新しい体が与えられた。わたしは、その恵みに生かされているのだ」ということです。
 ここで言われている「わたし」とは、ダビデのことではありません。今朝の御言葉によると、ダビデは、既に、墓に葬られていますから、ダビデ以外のことを表しています。
では、誰の事でしょうか。それが、「救い主」のことなのであります。つまり、ダビデは、ここで、「救い主の復活」について、既に、知っていた。そして、それを預言していたのだ、ということなのです。「預言」とは、神様の御言葉を語ることです。そうでありますから、ここでは、救い主御自身が、ダビデを通して、御自身の復活について語られている。そのことが、詩編に残されているわけなのです。
 つまり、何が言いたいのでしょうか。それは、この救い主の復活もまた、神様の変わることない御計画なのだ、ということなのであります。かつて、語られたことが、変わることなく、主イエス・キリストによって実現したのだ、ということなのであります。
 それだけではありません。今朝の御言葉の33節から35節では、詩編110篇の御言葉が引用されています。ここでは、救い主が、天に昇り、神の右の座に就かれた様子が、既に預言されています。更に言うならば、「聖霊降臨」については、既に、使徒言行録2章17節以下で、ヨエル書の預言として、ペトロは、引用をしています。
 つまり、主イエス・キリストの十字架の死、復活、昇天、そして、聖霊降臨は、もうすでに、神様の御計画の中に、置かれていたのだ、ということなのであります。これらの全ての御計画を通して、神様は、今、私達を赦し、私達を罪と死から救い出し、私達を新たに生かし、天に居場所を与え、神の民として、永遠に生きる約束を、確かなものとしてくださったのであります。
 イスラエルの民は、この長い歴史の中で、何度も、過ちを繰り返してきました。正に、神様に対して、背き続けた歴史であります。神様の御心から離れ続けた歴史であります。
 しかし、神様の救いの御計画、神様の救いの約束は、決して、変わることなかった。人間の罪が、どれだけ闇の極みの中にあろうとも、神様が、人間を救う、赦す、愛する。その救いの意志と約束は、決して、変わることはない。その幸いが、今朝の御言葉から強く指し示されていくのであります。
そして、何よりも、イスラエルの民だけではなく、今や、私達も又、この神様の強い、堅い、その救いの御意志と御計画によって、救われた一人であり、主のものとされた一人なのであります。
 さて、神様は、最後に、もう一つのことを明らかにしてくださいました。35節の御言葉です。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」。救い主は、天に昇り、神様の右に座しています。しかし、それは、「敵が足台となるまで」なのだ、と約束されているのです。ここで、約束されていることは、何でしょうか。
 それが、「救いの完成」です。「神様の支配の完成」であります。神様の御支配が、完成する時が、次に来るのであります。神様の恵みが、支配する。そのような日が、必ず来るのであります。
 しかし、今は、どうでしょうか。私達が、生きる現実は、罪に支配されています。死に支配されています。闇に支配されています。到底、神様の救いの完成を、望むことの出来ない世でありましょう。そして、私達もまた、今はまだ、罪に対して無力であり、死の力に対しても、無力であります。
 しかし、主イエス・キリストを通して、変わることのない、約束と御計画を果たされたお方は、この最後の約束も、忘れることはないはずであります。神様は、真実なお方であります。約束を守りぬき、その御計画を確かに、実現してくださる。そのような御方なのであります。
 私達にとって、大切なことは、何でしょうか。それは、その時を待ち望むことであります。神様の救いの恵みを味わい、来るべき、終わりの日に向けて、心を、主に向けることです。そして、主イエスこそ、私の救い主だと、力強く告白し、そのキリストに連なって生きることなのであります。そこにこそ、私達の真の喜びがあり、そして、真の希望があるのです。 
 この深い恵みを、心に留めて、主の約束を信じて、歩んでまいりましょう。そして、まだ、このキリストに結ばれていない方におかれましては、主イエス・キリストの救いは、あなたを救うための神様の御計画だったのだ、ということを、是非、心に留めて頂ければと思うのであります。そして、一人ひとりが、この恵みに与り、永遠の命、真の希望を得るものとなりますことを、心よりお祈り申し上げたいと思います。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:42| 日記