2021年12月31日

2022年1月2日 主日礼拝説教「聖霊を受ける」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録8章14節〜25節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録8章14節〜25節の御言葉です。14節の御言葉をお読みします。「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた」。
 ステファノの殉教を機に、ユダヤ人による大規模な迫害が起こりました。そして、エルサレムの教会は、バラバラにされてしまいます。
 その中に、フィリポという人がいました。フィリポは、サマリア地方で、福音を伝道し、それによって、多くのサマリア人が、キリストの救いへと入れられていくことになります。つまり、迫害によって、教会がバラバラにされた。そのことで、かえって、教会が、大きく、広く成長していった。そのようなことが、ここで起きたわけであります。
 この聖書箇所からも分かりますように、使徒たちは、エルサレムに、残っていたようです。つまり、「エルサレムの教会」は、無事に残っていたわけです。それに加えて、新たに「サマリアの教会」が、ここで誕生した。そのような状況が、ここで描かれているわけであります。
 使徒たちにとって、サマリアの人々が、救われていく。これは、喜びよりも、驚きの方が大きかっただろうと思います。
 そもそも、サマリア人とユダヤ人は、「親戚関係」でありました。しかし、サマリア人は、ユダヤ人と異邦人の混血民族でありました。それ故に、純粋なユダヤ人にとって、サマリア人は、不純な民族でもあり、汚れた民族であり、神様の救いに相応しくない、正に、堕落した民族。そのように思われていたわけです。それ故に、サマリア地方は、「救いの光」が、決して、差すことのない、「異邦の土地」とも呼ばれることもありました。
 そのような土地に、フィリポが、足を踏み入れ、そして、伝道をし、実りを得たわけであります。救いの光がない所にも、神様は、福音の光−キリストの光−を投じて下さったことが、ここで分かるのであります。
 フィリポもまた、この名前から分かりますように、恐らく、外国で育ったユダヤ人であると思います。ギリシャ語を話すユダヤ人です。その意味で、生粋なユダヤ人ではありません。生粋のユダヤ人から見れば、やはり差別や軽蔑の対象であったわけであります。
 しかし、今、神様は、キリストを通して、このフィリポを救ってくださった。純粋な神の民としてくださった。そうであるならば、このサマリアの人々が、救われないはずはない。この自分が、今、救われているのは、このサマリアの人々が救われる。そのために他ならない。この思いこそが、彼を、サマリアへと導いたのではないか。そのようにも言えるのであります。
 いずれにせよ、使徒たちにとって、そして、フィリポにとっても、サマリア伝道の成果は、自分たちの力を越えたところにある、キリストの救いの豊かさのようなものを、力強く、指し示していく驚くべき出来事であった。そのようにも言えるのであります。
 本来ならば、救いの届かない所だったわけです。しかし、今や、その隔ての壁が壊されて、サマリアにも、いや、全世界にも、救いの光が、差し込もうとしているのであります。
 そして、その救いの光は、時代を超え、場所を超え、様々な隔ての壁を越えて、今、私達の内にも差し込まれている。本来ならば、救いの光が、届くことないような、私達の闇の中にも、キリストの光が、差し込んでいるのであります。それは、もはや、人間の働きではない。神様が、そこで働いてくださる。その幸いが、ここでまず、指し示されているのであります。
 さて、15節〜18節の御言葉を、お読みします。「二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」。
 この箇所には、多くの解釈や議論があります。どの解釈も、価値があるものだと思います。ただ、もう少し、シンプルなメッセージとして、耳を傾けていくことが大事であると思います。ここで、言われていることは、何でしょうか。それは、目に見える「洗礼」が、人を救うのではない、ということです。目に見える儀式、あるいは、それらを司る人間に、救う力はないのだ、ということです。
 私達を、そこで、本当に救っているのは、「聖霊御自身」なのだ、ということです。神様の霊的な働きこそが、私達に信仰を起こさせ、救いへと至らせるのであります。その意味で、「洗礼」は、見えざる神の恵みを、目で見える仕方で、表現をしているだけであります。つまり、ここで強調されていることは、「人間の救い」は、「神によってのみ」起こるのだ、ということなのであります。
 本来ならば、救われるに値しない者たちであったかもしれない。救いの光が、届かないような所にいたのかもしれない。しかし、そこに、神様は、確かに生き、そして、聖霊によって働いて下さり、その人を、神の民として、新たに捕らえてくださるのです。人間の業や儀式、あるいは、私達人間の意志によって、信仰が生まれるのではなく、神様が、あなたの手を掴むことで、あるいは、神様が、あなたの内に宿ってくださることで、その人は、神の民とされ、永遠の命を得るものとされているのです。私達もまた、今、その神様の一方的な無条件のお働きによって、神の民とされ、永遠の命を得るものとされている。その幸いを、改めて、心に留めていくものでありたいと思います。
 さて、18節から24節の御言葉をお読みします。「シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。『わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。』すると、ペトロは言った。『この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。』シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください」。
 ここで示されている「シモン」の問題は、何でしょうか。それは、彼が「使徒たちの力」に注目をし、その「力」を求めたことであります。シモンにとって、「聖霊の働き」は、神の賜物ではなく、あくまでも、「人間としての使徒たちの力」であったわけです。だから、買い取れるものであると考えたのかもしれません。
 シモンが、切に求めたのは、人を救うことができる「力」であります。その力を手にすることで、自分の手で、人を救うことを目指した。そのようにもいえるかもしれません。
 しかし、先ほども、お伝えしましたように、「救い」は、人間の力から来るものではないのです。救いは、神から来るものなのであります。シモンが、聖霊を所有し、それを与えることで、誰かを救うことは、本当の救いにはならないわけです。それは、自分の利益のために、聖霊を利用しているだけであり、本当に、その人を、神様と結び合わすことにはならないのであります。
 シモンにとって、今、大事なことは、聖霊を所有し、人を救うことではありません。彼自身が、聖霊にとらえられて、信仰を頂き、救われることではないでしょうか。神様が、今、シモンを救うのだ、ということ。人間の力ではなく、神が、この私を救ってくださるのだ、ということ。このことを、自らが味わうことなのです。
 誰かを救いたい。あの人を救いたい。私の家族を救いたい。そのように、願うことは、私達の内にも起り得ることです。そして、その為に、様々なアプローチで、自ら働きかけることもあるでしょう。トラクトを配ったり、電話をしたり、ダニエル会や野の花会などの集まりをしたりすることもあります。
 勿論、その一つ一つのことは、無駄ではありません。とても、大切なことであります。しかし、それでも、そこで忘れてはいけないことは、本当に救うのは、「神しかいない」ということであります。聖霊の働きなくしては、聖霊を受けることなくしては、救いはない、ということであります。人間の力や手の業によって、救いが起こるのではなく、一つ一つのことを通して、神が介入してくださることで、救いは実現するわけです。それを忘れてはいけないと思うのです。
 そして、それを忘れないためにも、何が大切でしょうか。まず、この私が、神様によって、聖霊の働きによって救われている、という原点に立ち帰ることであります。ペトロが、シモンに対して放った言葉で言うならば、「悔い改めて、主に祈る」ことです。主の御業に立ち帰ること。この私が、他の誰でもない、ただ、聖霊なる神によって救われている。その深い幸いに立ち帰ることが大切なのです。その深い恵みに立ち、「神様、どうか、この人にも、聖霊がくだりますように。どうか、あなたが、この人を救い出してください」と祈る。そのところから、全てを始めていくことが出来るのです。
 今朝の御言葉から、私達が、改めて、強く教えられることは、「救いは、神から」「救いは、聖霊から」来るのだ、ということです。私達は、常に、この原点に立ち帰り、そこで、新たにされて、前進していくのです。
 私達もまた、聖霊を通して、信仰を頂きました。それによって、新たに、神の民とされ、永遠の命を約束されています。この深い恵みは、ただ、一方的な「神様の霊的な御業」によるものであります。使徒や牧師の特殊能力によって得られるものではありません。お金で買い取ることのできない賜物によって、私達は、無条件で、聖霊を頂き、信仰をいただいているのであります。正に、神様ご自身が、みなさんの内に、力強く、働いてくださる。そのところにのみ、信仰があり、そのことを通してのみ、真の希望と喜びを知るものとされているのです。
 信仰は、自分の力で得られるものではありません。ましてや、牧師や信仰の先輩たちによって与えられるものでもありません。ただ、神様が、教会を通して、あなたの内に聖霊を与えて下さる。ただそれによってのみ、私達は、真の希望を知ることができるのです。
 本来ならば、救いから遠く隔てられたところにいたかもしれません。しかし、隔ての壁は、神様が乗り越えてくださり、私達の内に、キリストの救いを指し示して下さるのです。その原点に立ち帰りつつ、新しい年の歩みを始めたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:15| 日記