2022年01月14日

2022年1月16日 主日礼拝説教「サウロの回心」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録9章1節〜9節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録9章1節〜9節の御言葉であります。1節から2節の御言葉をお読みします。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」。
 「サウロ」という人物が、ここで出てきます。聖書によると、サウロは、「キリキア州タルソス」出身のユダヤ人です(使徒22章)。つまり、彼は、外国で育ったユダヤ人です。そして、同じく聖書によると、サウロは、ユダヤ教史上、最も威厳のある律法学者、ガマリエルの弟子でもありました。ガマリエルの下で、厳しく律法を学び、律法に基づいて、神様に仕えていたわけであります。要するに、ユダヤ教−とりわけファリサイ派−における、若きエリート、あるいは、若手のエースであった。そのようにも言えるかもしれません。
 このサウロは、ステファノの殺害に賛成し、その後、クリスチャン(教会)の迫害者になります。但し、サウロの迫害は、律法に基づいた、彼なりの熱心さ・情熱から来るものであった。そのようにも、言えるかもしれません。
 さて、この御言葉によると、サウロは、クリスチャンを迫害するために、わざわざ大祭司からのお墨付きをもらい、ダマスコへ、意気込んで、足を進めました。エルサレムでの迫害によって、バラバラにされたクリスチャンたちが、各地で伝道し、群れを形成していたからです。その群れを、全て撲滅させるために、サウロは、ダマスコへと向かったわけであります。
 しかし、サウロは、ダマスコ途上で、主イエス・キリストと、出会うことになります。3節から6節の御言葉をお読みします。「ところが、サウロが荼毘をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる』」。
 何よりも、ここで、重要なことは、サウロの聞いた「声」です。天からの強い光に照らされて、地に倒れたサウロは、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞きました。つまり、今、サウロが、迫害している教会・クリスチャンと、自らを一体化させている「わたし」の声を聞き、そして、出会ったわけであります。
 この声に対して、サウロは、次のように問いかけます。「主よ、あなたはどなたですか」と。ここで、大事なことは、「主よ」という言葉です。つまり、サウロは、この声が、「主の声」であることを認識していたのです。言い方を変えるならば、今、ここに、「主なる神」がいることを、認識していたわけです。
 そもそも、サウロは、神様にお仕えするために、教会を迫害していました。神様に対して、熱心に、仕えるために、教会を迫害していたわけです。彼にとって、教会の迫害は、律法を守り、神殿を守るための戦いであり、神様に対して、忠実であるための働きなのです。
 しかし、今、ここで、彼は「神の声」を聴いた。そして、その神は、「なぜ、わたしを迫害するのか」と語りかけた。サウロ自身が、求めた言葉が、そこにはなかったのです。自分を応援してくれる言葉が、そこには、なかったのです。それ故に、この問いかけが、生まれてきたのです。「あなたは、どなたですか」と。
 このサウロに対して、神様は、このように答えられました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と。サウロは、自分を圧倒する神が、今、ここに、生きていることを知りました。そして、その神が、主イエス・キリストご自身であることも知ったのであります。それだけではありません。御自身と教会とを、一体化させる神が、ここにいることを知ったわけであります。
 つまり、ここで、サウロは、教会を迫害することで、教会と一体化された主イエス・キリストを迫害していることを知った。そして、キリストを迫害することで、神御自身を迫害していることに気づかされたのであります。神様のためにしていたと思っていた。しかし、それが、神様を迫害する行為だった。そのことに、サウロ自身が、主の声によって、気づかされていくことになるのです。
 このことは、私達にとっても、無関係ではないと思います。教会のために、神様のために、キリストのために、熱心であること。それは、否定されてはいけないかもしれない。しかし、その情熱が、かえって、教会を破壊し、分裂を巻き起こし、信仰者の関係を分断してしまうことがあるかもしれません。あるいは、自分の視点や思いや感情を中心に据えることで、神を排除することがあるかもしれない。その時、私達もまた、その情熱や真剣さ故に、神を迫害していることになるのです。
 大切なことは、私達もまた、常に、このサウロとキリストとの出会いの物語に立ち帰り、今、私達に対しても、同じように、語りかける、主の声に耳を傾けることなのかもしれません。
 サウロは、この主の御声を通して、自分自身が、神に敵対し、神を迫害していたことを知りました。それは、彼にとって、もはや、これ以上、赦されない、生かされないだろう、自身の罪を知ることでもあったでしょう。
 しかし、それでも、サウロは、生かされている。それだけではなく、主は、サウロを生かし、なすべきことを、これから与えられるのです。神に敵対し、神を迫害したサウロが、それでも、なお、生き、そして、起き上がれるのは、この神様の一方的な恵みと憐れみに、他ならないのであります。
 ここに使われている「起き上がる」とは、「復活」をする、という意味です。本来ならば、死すべきものが、復活の主、イエス・キリストとの出会いを通して、命を吹き返していく。新たに生きるものとされる。その幸いが、ここで、強く示されていると言えるのであります。
 7節から9節の御言葉をお読みします。「同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えずに立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」。
 サウロは、目が見えなくなります。これは、何を表しているのでしょうか。それは、これからの新しい人生、キリストにとらえられた人生は、自分の視点を必要としない人生なのだ、ということです。
今まで、サウロは、自分の視点で、全てを判断していたのかもしれません。自分の目から見て、自分の視点で、これは、主のためになる。これは、主のためにはならない。そのように、判断してきた人生であったのかもしれません。特に、ファリサイ派は、善悪を分別することを大事にしていました。しかし、その結果、神に敵対し、キリストを迫害する道を選んだわけであります。神様のために、最善の道を選び取っていたと思っていた。しかし、圧倒的な力を持つ、真の神なるキリストと出会うことで、自分が、最悪の道を選び取っていた。そのことを知るのです。
 しかし、サウロは、こうして、主イエス・キリストと出会いました。いや、実際には、キリストが、サウロと出会ってくださった。そして、そのことによって、彼の歩みが、完全に否定され、打ち砕かれていったわけです。しかし、この後、「アナニア」という人物を通して、主が、彼の目を開いてくださいます。そして、本当に見るべきもの、本当に知るべきものを指し示してくださったわけです。即ち、キリストの救いと赦しとを、彼の心の内に示し、彼を洗礼へ導き、そして、伝道者へと召してくださったのです。
 もしかすると、私達は、「信仰」というものが、自分の目や視点を、今までよりも、よりはっきりと見えるようにする。そのようなものと思っているかもしれません。あるいは、そのような信仰の在り方を、期待しているかもしれません。
 しかし、本当に大切なことは、復活の主と出会い、自分の見ているもの、信じているもの、より頼んでいるものが、サウロのように打ち砕かれ、自分が無力であること、不信仰であったことを知り、ただ、キリストの憐れみに、より頼むことではないかと思うのです。
 さて、復活の主を通して、まず、主を裏切った弟子たちに、赦しが与えられました。そして、教会の誕生を通して、ユダヤ社会で排除された、外国育ちのユダヤ人たちが救われました。そして、それに続いて、サマリア人が救われ、他宗教の異邦人も救われました。そして、今、迫害者もまた、救われた。
 正に、教会を通して、神が生きて働き、復活のキリストが、働かれることで、あまねく世に、キリストの救いの光が、届けられています。キリストの救いが、届かないところはありません。どれだけ、闇に溢れた社会でも、キリストの救いの光が、失われていないのです。
 このサウロは、後に、パウロと呼ばれます。そして、パウロは、「異邦人の使徒」とも呼ばれます。その名の通り、パウロは、世界各地に伝道し、教会を建て上げていきます。そして、その働きの先に、私達の教会もあるわけです。
 つまり、今も、復活の主は、私達の内に、働き続けてくださっているのです。私達は、ここで、復活の主と出会い、自らが打ち砕かれ、新しい命を頂き、新たにされて、それぞれの場へと、遣わされていくのです。この深い恵みを、心に刻みつつ、新しい一週間を、共に歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 19:16| 日記