2022年01月27日

2022年1月30日 主日礼拝説教「神様はあなたを見捨てない」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書6章32節〜40節

 今朝、私たちに与えられた御言葉は、ヨハネによる福音書6章32-40節であります。6:35には、イエス様のこんな言葉があります。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」この時、イエス様は、御自分の後を追ってついてきた群衆に「わたしが命のパンである。」と言われました。この群衆とは、この前日に、イエス様が起こされた5000人にパンと魚を与えるという奇跡を経験した人たちです。彼らは、イエス様がかつてイスラエルの民をエジプトから導き出したモーセになぞらえ、自分たちを導く指導者になって欲しいと熱望しイエス様を追いかけて来たのです。そして、イエス様が「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる(6:32)」言われたのを聞いて、彼らはそのパンを是非わたしたちくださいと願いました。それに対して、イエス様は、「わたしが命のパンである。」とお答えになったのです。
 ヨハネによる福音書4:1以下には、本日の物語に似た話が登場します。イエス様と、サマリアの女性との物語です。この時、イエス様がサマリアの女性に指し示されたのは、「飲む者が決して乾くことのない、永遠の命に至る水」でありました。今日の、食べる者が決して飢えることのない命のパンと似ています。この命の水もまさに、イエス様御自身のことでありました。この時、イエス様は、サマリアの女性にこう言われます。「婦人よ、わたしを信じなさい(4:21)。」ここだけでなく、イエス様は、ヨハネによる福音書の中で、繰り返し、繰り返し出会った人々や弟子たちに「わたしを信じなさい」と語られます。「わたしを信じなさい。」これは、招きの言葉です。イエス様に招かれ、イエス様の身元に近づき、イエス様から命の水とパンをいただく。これは、信じる者達に与えられる特権です。主イエス・キリストという命の水、命のパンによって、わたしたちは潤され、養われ、生かされていくのです。そのところに、イエス様御自身が、わたしたちを招いてくださっている。これほどの恵みはありません。
 しかし、本日の物語では、イエス様は「わたしが命のパンである。」と御自身を証しされた後に、続けて群衆にこのように言われるのです。「しかし、前にも言ったように、あなたがたは、わたしを見ているのに、信じない(6:36)。」あなたは、ちっともわたしのことを信じていないではないか。イエス様がそのようにおっしゃるのです。それだけでなく、それは、前にも言ったことだと言われる。人々は何度も信仰がないと指摘されているのということです。
 おそらくこれは、6:26のイエス様の言葉、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したがからだ。」のことでありましょう。ここで、イエス様が言われているのは、5000人にパンと魚をお与えになった奇跡のことですが、「しるし」とは、ヨハネによる福音書が使う専門用語でイエス様の奇跡を指し示す言葉であります。この言葉で重要なのは、それが「何のしるし」であるかということです。それは、イエス様がちょっとのパンと魚を大量に増やすような奇跡を行える人だという「しるし」ではありません。イエス様の行われる「しるし」とは、イエス様こそ神様がお遣わしになったお方、この世で神様の意思を行い、神様の言葉を語られるお方であることの「しるし」であるのです。
 人は、イエス様の「しるし」を通して、全知全能の神様を知るのです。しかし、群衆は目の前のパンの方ばかりを見て、神様を見ていませんでした。群衆は、イエス様からパンと魚をいただいて一度はお腹が満されました。しかし、時が経てば、またお腹は減ります。そして、この時、神様を見ずに、パンばかり見ていた人たちは、またパンが欲しいとしか願わないのです。
 もしかしたら、わたしたちもこの群衆と同じかもしれません。わたしたちは、神様に祈るとき、ついついパンを下さいと願ってはいないでしょうか。しかし、もう、わたしたちには命のパンであるイエス様が与えられているのです。しかも、そのイエス様御自身が「わたしを信じなさい」と招いてくださっているのです。まず、イエス様を求めましょう。イエス様と固く結ばれましょう。そうすれば、必ず飢え渇きは満たされてゆくのです。
 ここで、信仰・信じることとはどういうことかを、今一度、ご一緒に確認しておきたいと思います。信仰とは、何でしょうか。信じると言うと、主語は当然「わたし」だと考えるでしょう。それでは、信仰の主体は、このわたし自身なのでしょうか。本日の御言葉の6:37にはこうあります。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。」父なる神様が、イエス様に人々をお与えになる、即ち人々を託されるということです。ここで大切なことは、その人々とは信じる者たちであるということです。もっと厳密に言うならば、信じる者と「された」人たちということです。キリスト教において、信仰の主体は他ならぬ神様であります。確かに、わたしたちは自分で選び、教会へ行き、聖書を開いたかもしれません。しかし、それすらも神様のご計画の内にあり、神様が、わたしたちを信仰へと導き、真理を悟らせ、ついには「信じます」と告白するに至らしめてくださったのです。わたしたちは、父なる神様から信仰をいただき、神様によってイエス様にゆだねられているのです。ですから、信じる者は、イエス様を「我が主」であると告白するのです。
 イエス様がわたしの主となってくださる、この恵みを今朝、心に覚えたいと願います。この恵みをないがしろにしないためにも、今一度6:36−37を、さらに深めて読んで参りたいと思います。36節で、イエス様は人々に、あなた達は、わたしを信じないと言われました。これも、ヨハネによる福音書が繰り返し指摘する人間の現実であります。人は、イエス様を信じない。いくら、信じなさいと招かれても、信じない。信じることができない。という大きな命題がここで指し示されています。
 創世記で言われるように、アダムとエバの裏切り以来、神様と人との関係は決定的に破れてしまいました。しかし、聖書は、どこまでも神様から離れてしまう存在であったとしても、神様は決してそのもの達を見捨てないと語ります。天の父なる神様はこんなわたしたちにも信仰を与えてくださるのだ、そして、信仰を与えられたもの達が、イエス様の元へとやってきた時、イエス様は「あなた達はわたしを信じない、だから、あなたたちのことなど知らない」などとは決して言われないのです。むしろ、そんなわたしたちでさえ、主は愛のうちに身元へと招いてくださっていることが本日のイエス様の言葉に強く現されているのです。
 本日、「神様はあなたを見捨てない」と説教題をつけました。この説教題は、本日読まれた旧約聖書イザヤ書41章17節最後の御言葉「イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない」からとったものです。
 イスラエルとは、神様によって選ばれた神様の民族のことです。旧約聖書には、神様はアブラハムを選び、子孫の数を祝福のうちに増やしてくださったと記されています。また、アブラハムとその子孫が増えた後の時代、神様は奴隷状態であったイスラエルの民をエジプトから導き出し、約束の土地を与えてくださったのです。そして、イスラエルの王国が建てられました。
 その王国が南北に分裂し、戦争よって滅ぼされた時も、神様はイスラエルの民と共にいてくださいました。本日の説教題になっている、「イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない」という御言葉を語ったイザヤは、南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされた、いわゆるバビロン補囚の頃に活躍した預言者です。預言者とは、主から言葉を受けて語る務めを為す人のことです。ですから、イザヤの語る言葉は、イザヤの言葉ではなく、主なる神様の言葉であります。
 南ユダ王国の滅亡という混乱の最中、イスラエルの指導者は捕囚によってバビロンへと連れて行かれ、イスラエルの民は、生活がままならなくなりました。神様を礼拝することもできなくなりました。しかし、このようなどん底の状況で、古のイスラエル人は、主なる神の力強い言葉を聞いたのです。わたしは、あなたたちを決して見捨てない、と。
 イザヤ書には、このような主による慰めと励ましの言葉が繰り返し語られています。この時、神様はイザヤを通して、神様がお選びになった民であるイスラエルの人々に向かって語られました。しかし、今朝、神様は、この世にお遣わしになった御子、キリスト・イエスを通して、ここに集うわたしたちにも語られているのです。
 神様は、愛する御子イエス様をこの世に遣わしてくださいました。それは、神様がこの世で御子イエス様を通して、御自分の意思を行うためであったと、6:38には記されています。では、その神様の御心とは一体何でしょう。6:39には、それが「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」と言われます。「わたしに与えられた人」とは、神様によって導かれイエス様を信じる者とされた人々、つまり、わたしたちのことであります。終わりの日が来た時に、わたしたちが誰一人として失われないことを神様は強く望んでおられるのです。信じる者たちが、終わりの日に復活する、それこそが、神様の御心であるのです。神様は、わたしたちを失いたくないと思っておられる。このことをわたしは驚きを持って受け止めました。信じることさえできない、神様にとっては無能で裏切るだけの存在であるわたしたちを、神様はなおも失いたくないと思っておられるのです。
 しかも、神様は、そのために、愛する御子をこの世に送り、十字架にかけて命を捨ててまで、その愛を示してくださいました。イエス様の十字架の死は、わたしたちの身代わりの死です。もう死ぬしかない存在のわたしたちの代わりに神様は御子をしに渡されました。そして、イエス様の復活は、わたしたちが終わりの日に受ける復活の約束の証しです。イエス様が十字架で死なれ、三日目に復活したように、わたしたちも死んでもなお、終わりの日に復活し神の国に入れられるのです。その確かな約束に希望と喜びを持って、この一週間も歩んで参りたいと願います。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:49| 日記