2022年03月24日

2022年3月27日 主日礼拝説教「あなたはどう言うのか」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書15章1節〜15節

 今、私達は、受難節の時を過ごしています。「受難節」とは、何でしょうか。それは、イエス様の「苦しみと死」「苦難と死」を偲ぶ時です。イエス様は、何のために、苦難を受けられたのでしょうか。イエス様は、何のために、十字架で死んで行かれたのでしょうか。それは、私達の「救い」のためです。では、イエス様は、私達を「何から」救ってくださるのでしょうか。今朝は、そのことに思いを馳せながら、共に、御言葉に聴いて参りたいと思います。
 イエス様は、神様の独り子です。そして、イエス様は、本当の神様であります。しかし、それを、どうしても、受け入れることができない。そういう人たちがいました。それは、言い換えるならば、真の神様を受け入れることができない人たちがいた、ということでもあります。それは、一体、誰でしょうか。
 それは、まず、祭司長、長老、律法学者たちです。彼らは、神様のために、仕える人たちでした。けれど、イエス様を、真の神様として、受け入れることができなかった。神様に、最も近い存在とも言える、彼らが、イエス様を、真の神様として受け入れることが出来なかった。それは、なぜでしょうか。
 それは、聖書によると、「妬み」(ねたみ・そねみ)を抱いていたからです。「妬み」というのは、自分と誰かを比べ、自分の方が負けていることを悔しく思い、その人を嫌いになってしまう。そういう感情です。彼らは、イエス様と自分たちを比べて、イエス様の方が優れている。そのことを知りながら、悔しさのあまり、イエス様を憎んでしまった。そういう人たちです。イエス様に、負けたくなかったのかもしれません。自分たちの力を守りたかった。そういうことも言えるかもしれません。
 こういう感情は、私達の内にもあるかもしれません。イエス様が大事。だけど、自分の立場の方が大事。自分の気持ちの方が大事。神様のことよりも、自分の事の方がもっと大事。神様よりも、自分の方が正しい。そういう心が、私達の内にも、全くない。そう言い切れないかもしれません。
 さて、イエス様を、神様として、受け入れられない人。実は、まだいます。それが、今朝の聖書の御言葉から言うと「群衆」です。彼らは、元々は、イエス様のことを受け入れた人々でもありました。しかし、今朝の御言葉によると、彼らも、イエス様のことを、受け入れることができませんでした。なぜでしょうか。
 それは、今朝の御言葉によると、祭司長たちの言葉を信じたからです。聖書には、群衆が、祭司長たちに煽動されてしまった。そういう様子が書かれています。つまり、群衆には、イエス様を、真の神と信じるほどの強い「信念」がなかったわけです。だから、神様の言葉よりも、人の力ある言葉を信じた。それは、少し見方を変えていうならば、結局のところ、群衆にとって、イエス様は、期待外れの人でしかなかった、ということ。イエス様のことよりも、力ある人間の方に価値を見出した。そういう判断をしてしまったのだ、ということでもあります。
 こういう感情は、私達の内にもあるかもしれません。神様の言葉よりも、人の言葉を優先してしまう。人の言うことの方が、正しく聞こえてしまう。最近で言うならば、インターネットの情報とか、新聞とかテレビの情報。神様の言葉とは、全く関係のないところで、その言葉に従ってしまう。その言葉に引き寄せられてしまう。いや、そういう言葉を、いつのまにか正しさ基準にして、聖書を読んだり、イエス様の言葉に価値を付けたりしてしまう。そういう心が、私達の内にはないでしょうか。
 さて、イエス様を、受け入れられない人は、まだいました。それが、「ピラト」です。今朝の御言葉によると、ピラトは、イエス様に十字架刑を言い渡した人です。彼には、一つ、分かっていたことがありました。それは、イエス様には、何も「罪」はない、ということです。しかし、イエス様を、十字架に架ける決断をしてしまいます。なぜでしょうか。
 聖書によると、「群衆を満足させたかった」からです。なぜ、自分の信念を曲げてまでも、群衆を満足させたかったのでしょうか。それは、自分を守るためです。自分の地位や正しさを失うことを恐れたからです。イエス様を釈放することで、自分が憎まれることを恐れたからであります。
 こういう感情も、私達の内にはあります。「イエス様大好き」と、素直に言えない自分が、どこかにいないでしょうか。そういうことをいって、周りから、ドン引きされてしまうことを恐れていないでしょうか。自分を守るために、イエス様を切り捨てていませんか。
 このように、今朝の御言葉には、イエス様を受け入れられない人たちが、沢山出てきます。そして、そのどの人を取ってしても、そこに、私達の姿が見えてくる。実は、これが、聖書の示す、私達の「罪」というものなのです。
 しかし、今朝の御言葉は、ただ、人間の罪だけを、語っているわけではありません。この聖書箇所には、「救われた人」がいる。それが、「バラバ」です。バラバは、イエス様と引き換えに、救われた人です。この人は、とても、悪い人だったようです。自分の正義のために、人を傷つけたり、社会で暴力を振るったりする人でした。正に、自分中心の人とも言えるかもしれません。この人も、本来ならば死刑にされるはずでした。
 しかし、バラバは、救われた。イエス様の代わりに救われた。ここで、一番、大切なことは、「バラバ」は、何もしていない、ということです。救われるために、何かをしたわけではない。つまり、無条件で、無償で、イエス様の代わりに、救われた、ということです。
 実は、これが、私達の信じている「救い」なのです。先ほども、申し上げましたように、私達は、神様に対して、顔を上げることのできない「罪人」であると言えるかもしれません。神様のことよりも、自分の使命や自分の立場や自分の都合を優先してしまうものです。その意味で、バラバも、祭司長たちも、群衆も、ピラトも、私達ですらも、平等に罪人であり、神様の前では、滅びるべきものであります。
 しかし、その私達の身代わりとなって下さった。それが、イエス様なのです。私達の身代わりとなって、「神様ごめん」をしてくださった。そして、神様は、イエス様の死を通して、私達に「いいよ」と言ってくださる。ここに、私達の救いがある。ここに、真の救い主であるイエス様のお働きがある。
 では、私達は、この救いのために何をすべきなのでしょうか。何もしないのです。しかし、ただ一つ大切なことがあります。それは、イエス様を、救い主と信じることです。
 しかし、信じることもまた、神様の深い導きによるものです。ピラトは、イエス様にこう聞きました。「あなたは、ユダヤ人の王なのか」と。これは、言い換えるならば、「あなたは、救い主なのか」と言えるかもしれません。
それに対して、イエス様は、何と答えられたでしょうか。「それは、あなたが言っていることです」と。ちょっと、分かりにくい表現かもしれません。これを正確に訳すと、「あなたは、どう言うのか」となります。つまり、イエス様は、質問に対して、質問で返す仕方で、答えられたのです。
 みんなは、私を嫌いと言っている。私が間違っていると言っている。では、「あなたは、わたしのことを、『どう言うのか』」。あなたは、私を「救い主」と言うのか。イエス様は、ピラトに、そう問われた。その結果、ピラトは、何も答えられなかった。それだけではありません。自分を守るために、祭司長たちや群衆のいう事を優先した。イエス様の問いかけに、正しく応えられなかったわけです。人間の限界が、ここにあると言えるかもしれません。
 イエス様は、今も、生きて、私達に問われています。世界の人々は、私のことを嫌いというかもしれない。あなたの身近な人は、私を受け入れることを拒むかもしれない。しかし、今あなたは、私をどう言うのか。あなたは、私を救い主として、受け入れるのか。私達は、どう答えるのでしょうか。
 イエス様は、私達の罪を背負い、身代わりとなって、私達のために死んでくださいました。それほどまでに、私達は、神様に愛されています。
もう誰かと、自分を比べる必要はありません。たとえ、弱いものであっても、イエス様は、命がけで愛してくださるからです。
 もう、人の言葉に頼る必要はありません。どれだけ、あなたに良い言葉を与える人がいても、その人は、あなたのために、命を捨てることはないからです。私達のために、命を捨ててくださる御方の言葉以上に、愛に溢れた真実の言葉はないからです。
 もう、人から憎まれることを恐れなくても良いです。ただ、イエス様だけが、あなたを愛してくださる。それだけで十分です。
 この深い恵みの中で、私達は、イエス様を救い主と、信じ、そして、告白するものへと招かれています。いや、今、問われているのです。私達もまた、神様に導かれ、聖霊の働きによって、この答えへと至るように、主に願うものでありたい。自分の内には、答える力はないかもしれません。だからこそ、あなたが、私を導いてください。そう願う者でありたいのです。
贖いの主、イエス・キリストの救いが、今日も、皆様の上に、豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:43| 日記