2022年05月07日

2022年5月8日 主日礼拝説教「信仰によって義とされる」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録13章13節〜41節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録13章13節から41節の御言葉であります。今朝の御言葉は、一言で言えば、「使徒パウロの説教」です。
 恐らく、「使徒言行録」に残されている、使徒パウロによる「最初の説教」だと思います。それでは、使徒パウロは、ユダヤ人に向かって、一体、何を語り始めたのでしょうか。それは、端的に言うならば、「イスラエルの歴史」についてであります。もう少し、信仰的に言うならば、「神様の救いの歴史」についてであります。
 この使徒パウロの説教の中で、何よりもまず、注目したいことがあるのです。それは、このパウロの説教の前半部分で使われている文章の「主語」です。パウロは、ここで、全ての主語を「神様」に置いています。つまり、イスラエルの歴史の中心は、あくまでも「神様御自身」なのだ、ということ。人間が、世界の支配者ではないのです。神様こそが、この世界の支配者であるのだ、ということ。そのことが、ここで、強調されているのであります。
 神様が、イスラエルを選び、神様がイスラエルを導き、神様が、イスラエルの罪に対して忍耐され、神様が、イスラエルのために戦ってくださり、神様が、イスラエルの秩序を守り、そして、神様が、救い主を送ってくださったのであります。イスラエルの歴史は、神様が中心でなければ、決して、成り立つことはないのだということ。そのことが、何よりもまず、ここから指し示されているのであります。
 そして、今や、主イエス・キリストを通して、私達もまた、あなたもまた、この神様の救いの歴史の中に、入れて頂いているのであります。あなたの名も、神様の救いの歴史の中に、刻まれているのであります。
 ある意味で、私達が、今、ここで、救われるために、イスラエルの人々が、先立って、救われたのだと言えるかもしれません。そして、それは、正に、今、私達が、今、あなたが、キリストにあって救われているのは、あなたの目の前の人が、救われるために、必要なことなのだ、ということでもあるのです。私達は、ただ単に、神様の救いの歴史の中に入れられているわけではないのです。この救いの御計画の一部として、必要とされたものとして、救われているのであります。
 そもそも、イスラエルの人たちは、なぜ、神の民として、選ばれたのでしょうか。彼らが、優秀な民族だったからでしょうか。大きな力を持っていたからでしょうか。それは、違います。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、罪を犯しました。モーセも罪を犯しました。サウル王やダビデ王もまた、罪を犯しました。彼らだけではありません。イスラエルの民もまた、何度も、何度も、罪を繰り返しました。最後には、神の独り子すらも、闇に葬ったわけです。
 しかし、それでも、神様は、イスラエルのために忍耐し、イスラエルのために契約を結び、カナンの土地を与え、士師たちを任命し、王を与え、救い主までも約束し、そして、救い主による救いまで、成し遂げてくださった。
なぜでしょうか。それは、神様が、一方的に、イスラエルを愛し、そして、憐れんでくださったから。これに他ならないのであります。
 使徒言行録の中には、パウロ以外にも、「ペトロの説教」や「ステファノの説教」が、残されています。ペトロやステファノもまた、イスラエルの歴史を遡りながら説教をしました。この二人の説教には、共通点があります。それは、二人とも、「イスラエルの罪」を明らかにした、ということです。イスラエルの罪の歴史を明らかにした、とも言えるかもしれません。あるいは、人間の闇を語ることで、キリストの救いの光を証ししたのだとも言えるでしょう。
 それに対して、使徒パウロは、どうでしょうか。全体を読んで行くと、確かに、パウロもまた、イスラエルの罪について語っています。しかし、同時に、パウロは、神様の愛と憐れみについても、ここで強調しているのです。イスラエルの歴史は、神様の憐れみに支えられた歴史なのだ、ということです。あるいは、人間の罪に対して、神様が徹底的に愛と憐れみをもって応じてくださった。それが、イスラエルの歴史なのだ、ということ。そのこともまた、この箇所を読んで、強く示されていることなのであります
イスラエルの歴史は、単なる、罪の歴史ではありません。その罪に対して、神様が、ただただ、憐れんで下さった。そのような歴史なのであります。そして、その憐れみの最高潮にあるのが、主イエス・キリストの十字架の死と復活なのだ、ということになるのであります。
 そして、この最高潮の救いと憐れみは、イスラエルの人たちだけではなく、全ての人の救いとして、ただ、神様の一方的な御業によって、与えられているのであります。私達もまた、このキリストの救いによって、神の民とされ、憐れみと慰めに満ちた、主の歴史の中の一人とされている。いや、地上の歴史すらも越えていくほどの、永遠なる神の内に、生きることが許されている。その幸いが、ここで、新たに指し示されているのであります。
 イスラエルの歴史は、確かに、罪ある歴史でありました。いや、人類の歴史そのものが、罪にあふれた歴史です。しかし、神様は、憐れみと忍耐をもって、イスラエルを導き、そして、最後の最後に、惜しみなく、御子を死に渡し、そして、復活させてくださった。こうして、神様の救いの歴史は、御子の死と復活を頂点におき、更に、それを起点として、私達のもとへと、更に、拡大し、進行していくことになった。そして、今、私達もまた、この主の救済史の中に生きることが許されている。その幸いを新たにしたいと思うのであります。
 このパウロの説教には、もう一つ、特徴的な言葉があります。それが「朽ち果てることがなかった」という言葉です。ここから、私達は、何を知ることができるのでしょうか。
 それは、主イエス・キリストは、過去の人物ではない、ということです。「復活」という出来事も、ある意味で、「過去の出来事」になります。しかし、主イエス・キリストは、復活によって、「朽ち果てることはない御方」なのだ、と語られているのです。
 つまり、主イエス・キリストは、今も、変わることなく、私達と共に生きてくださるのだ、ということでもあるのです。
 イスラエルの歴史には、沢山の偉人が登場します。例えば、モーセ、士師、王様、預言者、そして、新約聖書で言うと、洗礼者ヨハネ。これらの人々が、主に、挙げられると思います。あるいは、人間の歴史の中にも、数々の偉人がいると思います。
 しかし、その全ての人は、死んでいきます。墓に納められます。しかし、主イエス・キリストには、墓はないのです。なぜでしょうか。主は、今も生きているからであります。今も、生きて、私達を信仰へと導き、私達を慰め、励まし、希望を得させてくださるからであります。今、私達が、主イエスを救い主と告白し、クリスチャンとして、希望をもって生きることができるのは、主が、今も、生きてくださり、私達の人生の主でいてくださるからであります。
 「信仰」を持つ、ということは、私達が信じることではありません。信仰は、今も、私達と共に生きて下さる、キリストと結ばれることなのであります。私達には、決して、誇れるほどの信仰はありません。神様の目には、罪に満ち、穢れに満ちた者であります。主イエス・キリストも仰せになるように、「人の口からでるものが人を汚す」のであれば、私達の告白も又、穢れに満ちていると、言えるかもしれない。どれだけ、固い決意で、主に従っていても、裏切ってしまうのが、私達です。私達の側には、何も可能性はないのです。その意味で、律法を守ることでは―即ち、人の行いによっては―、救いは得られないのであります。
 しかし、その私達と、キリストは、今も生きて、つながってくださる。私達の弱さに満ちた告白もまた、今も生きて働かれる、キリストの執り成しによって、神の目に美しくされていく。ただ、この朽ち果てることのないキリストと深く結ばれることによって、私達は、主の目に美しく、御心に適った者とされていくのです。
 かつて、憐れみをもって、イスラエルと共に歩まれた神様は、今も、真の救いの神として、私達と共に生きてくださる。今も生きて、憐れみをもって、歩み続けてくださっている。この歩みは、死すらも、凌駕していく、永遠なる歩みであります。私達は、今、神の民として、その名を救済史の中に刻んでいただき、永遠の命を約束されたものとして、今を得ることが許されているのです。
 キリストは、今も生きておられます。そして、私達の歩みを、憐れみによって支えながら、神の国へと導かれます。私達は、今も、その恵みを味わいながら、生きることができるのです。その幸いを、新たに、心に刻みつつ、主の民として、賛美の声を上げつつ、共に、歩んでまいりたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:59| 日記