2022年05月14日

2022年5月15日 主日礼拝説教「永遠の命」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録13章42節〜52節、イザヤ書49章1節〜6節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録13章42節〜52節の御言葉であります。改めて、42節から45節までお読みします。「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」。
 使徒パウロは、ユダヤ人の会堂で、ユダヤ人に向かって、一つの「説教」をしました。聖書によると、多くのユダヤ人たちや異邦人が、その御言葉に関心を抱いたようです。
 そもそも、使徒パウロは、「何」を語ったのでしょうか。今朝の御言葉に従って、言うならば、「神の恵み」について語りました。そして、その恵みに生き続けなさいと、勧めたわけであります。
 それでは、「神の恵み」とは、何でしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架の死と復活による「救い」です。主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、信じる者は、皆、罪の赦しを得ることができる。更に、永遠の命も得ることができる。これが、使徒パウロを通して語られた「神様の恵み」そのものであります。
 ここで重要なことは、「神様の恵み」は、信じる者は皆、誰でも与えられる。そのような恵みなのだ、ということであります。パウロ自身もまた、「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」と語っています(13章39節)。「義とされる」とは、簡単に言うならば、神様の目に相応しい者とされて救われる、ということであります。
 いずれにせよ、使徒パウロの説教は、人間の行いや民族的アイデンティティーが、救いを生むのではなくて、ただ一方的な、神様の恵みとして、信じる者に、与えられるもの。神様の一方的な恵みなのだ、ということ。そのことを示しているのであります。
 多くの人々、とりわけ、「改宗したユダヤ人」と呼ばれる人々や異邦人たちは、この御言葉を、ポジティブに受け止めたようです。しかし、その反面、使徒パウロに反対する人もいました。それが、「ユダヤ人」たちです。
 それでは、なぜ、「ユダヤ人」たちは、この御言葉を受け止めることが、出来なかったのでしょうか。聖書によると、それは「妬み」が起きたからだと言われています。
なぜ、妬みが起きたのでしょうか。一つは、単純に、自分たちよりも、使徒パウロたちが、人気者になったからだと思います。もう一つは、彼らのプライドが傷つけられたからではないかと思うのです。
 ユダヤ人にとって、神様の救いは、「割礼」を受けて、神の民となること。そして、「律法」に従って生きることです。つまり、神様の救いは、ユダヤ人になって、与えられた掟に生きることで、即ち、人間の力によって、得られるものだと信じられていたわけです。
 しかし、それに対して、使徒パウロは、神様の救いは、信じる全ての人に、与えられる、神様の一方的な恵みに他ならないのだと語り、それが多くの人々に受け入れられたのであります。それが、ユダヤ人の自負心や誇り、要するに、プライドに傷をつけることになったのであります。
 この感情は、決して、私達と無関係ではないと思うのです。私達の内にも、自負心があります。誇りがあります。プライドもあるのです。キリストの福音は、正に、その私達の誇りやプライドを打ち砕くものに他ならない。あなたの誇りやプライドが、あなたを救うのではない。あなたが、あなたの力によって、あなたの知恵や知識によって、救いを得るのではない。ただ、主イエス・キリストだけが、あなたを救うのであります。
 大切なことは、何でしょうか。キリストの福音によって、打ち砕かれることを、喜べるか、ということなのです。ユダヤ人たちは、喜べなかったのです。自分の正しさが、自分の行いが、否定されること、打ち砕かれることを恐れたのであります。
 自分が否定されることは、悲しいことであるかもしれません。しかし、打ち砕かれた先に、新しい命がある。新しく生きる道がある。その命や道は、永遠に向かう命や道なのであります。人の力に頼って死ぬか。神の力に頼って生きるか。私達は、常に、いや、今も、それが、主の前で問われているのであります。そして、私達にとって、大切なことは、「打ち砕かれる」ことを喜び、神の恵みの下に生き続けること。これに他ならないのであります。
 さて、46節から52節の御言葉をお読みします。「そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。『神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。」』異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」。
 この文脈において、大切なことは、何でしょうか。それは、第一に、異邦人伝道は、主の御心であった、ということです。決して、使徒パウロの個人的な感情によるものではない、ということです。主イエス・キリストが、この地上に生まれる前から、神様は、異邦人をも救うことを、御心に留めておられた。今、あなたが、信仰によって、救われているのは、神様の御心なのです。今、あなたが、この礼拝に参加しているのは、これから先、あなたが救われるための御計画なのであります。
 もう一つ、大切なことがあります。それは聖書によると、「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」と記されていることです。宗教改革者カルヴァンの提唱した「二重予定論」の根拠とされる個所でもあります。簡単に言うならば、「神様は、『救われる人』と『滅びる人』を決めておられた」という教えです。
 しかし、この聖句を、注意して読まなければいけません。この御言葉を通して、何が見つめられているのでしょうか。この聖句が、本当に、見つめているのは、「信仰」も「救い」も、全てが、神様の御心によるものなのだ、ということではないでしょうか。即ち、この聖句で、最も重要なことは、神様の配剤によって「救われる人」と「滅びる人」がいるという話ではないのです。ここには、そもそも「滅び」という言葉も使われていないわけです。
 この聖句において、最も重要なことは、誰が救われ、誰が救われないのか、と言う話ではなくて、「信仰」も「救い」も、全ては、神様の御業によるものなのだ、ということなのです。  
私達の救いは、私達の力によるものではない。私達の知恵や知識によるものではない。ただただ、神様の憐れみに富んだ選びと導きに他ならないのだ、ということなのです。そして、今、この礼拝に招かれ、共に御言葉に耳を傾けている、あなたもまた、その選びの中へと招かれた一人なのだ、ということなのであります。
 私達もまた、罪人であります。救いから、遠く隔てられた存在であります。ユダヤ人の目から見れば異邦人です。そして、永遠の命に、値しないものです。滅びゆくだけの存在でしかない。
 しかし、神様は、その私達を、御心によって選び、キリストの救いを与え、信仰の目を開いてくださり、永遠の命を受け継ぐものとして下さったのであります。私達の功績によるのではなく、ただ一方的な恵みと救いと御心のままに、私達を、永遠なる神の民としてくださったのであります。永遠の命を受け継ぐものとしてくださったのです。
 私達は、勿論、この地上で、死を迎えます。しかし、その死は、単なる滅びの死ではない。むしろ、罪や肉からの解放であり、永遠の命の入り口に他なりません。私達は、今、この瞬間から、生きている間から、この永遠の命に向かった、新しい人生を歩むことが許されているのです。
だからこそ、大事なことは、何でしょうか。それは、いつでも、どんな時でも、ただただ、神様の恵みの下に生き続ける、ということです。恵みを覚えて生き続けることです。そこにこそ、真の喜びがある。聖霊による慰めがある。希望を失うことのない人生がある。
 だからこそ、私達にとって、大切なことは、この主の恵み、主の救い、ただ一つの希望の下に生き続け、主を賛美しつつ、この世を生き続けることなのです。福音によって、自らが日々打ち砕かれながら、主の憐れみと救いの下に、共に生き続けるものでありたいと思うのです。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:05| 日記