2022年07月02日

2022年7月3日 主日礼拝説教「恵みによって救われる」須賀工牧師

聖書:使徒言行録15章1節〜21節、イザヤ書56章1節〜8節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録15章1節〜21節の御言葉であります。1節の御言葉をお読みします。「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた」。
 今朝の御言葉の舞台は、まず、アンティオキアの教会です。アンティオキアの教会とは、どういう教会でしょうか。それは、一言で言うならば、世界で初めて、ユダヤ人ではなく、異邦人を、その主要メンバーとして、受け入れた教会です。
 そして、もう一つ言うならば、パウロとバルナバの世界伝道の拠点となった教会でもあります。要するに、この教会から異邦人伝道が、具体的に開始されたことになるのであります。
 しかし、そのような、アンティオキア教会に対して、「割礼」を受けなければ、救われない。そのように教える人たちがいたようです。聖書によると、その人たちは、ユダヤから下って来た人たち。恐らく、ユダヤ教のファリサイ派から改宗した人たち。そのような人たちであったようです。
 そもそも「割礼」とは、何でしょうか。それは、一言で言うならば「ユダヤ人の印」「ユダヤ人であることの印」です。つまり、彼らは、主イエス・キリストを受け入れるだけでは救われず、割礼を受けて、ユダヤ人にならなければ、完全に救われないのだと、ここで教えたことになります。このユダヤ主義的な教えは、異邦人を中心とするアンティオキア教会において、大きな問題となります。
 そもそも、アンティオキア教会のメンバーは、皆、割礼を受けていません。異邦人のままで、主イエスを救い主と告白し、洗礼に与っていました。また、人は律法によって救われるのではなく、与えられた信仰によって救われるのだと、パウロやバルナバを通して、教えられていました。その彼らにとって、このユダヤ主義的教えは、自分たちに与えられた救いを、否定する教えでもあったわけです。
ここに、当時の初代教会が直面した、最大の問題が示されています。その問題とは、どういう問題なのでしょうか。それは、簡単に言うならば、キリスト教会は、「信仰による救い」を教えるのか、あるいは「律法による救い」を教えるのか、という問題。あるいは、「キリスト教」と「ユダヤ教」の関係性に関わる問題。そのように、言えるかもしれません。
 このアンティオキア教会で生まれた問題は、後に、教会全体を巻き込んでいく問題へと発展していくことになります。聖書によると、使徒たちを始め、教会の主要メンバーが、エルサレムに集結し、この問題解決のために、会議を開催することになりました。これが、紀元約49年頃に行われた「エルサレム使徒会議」と呼ばれています。
 このエルサレム会議において、どのような、論争が繰り広げられたのか。それは、はっきりとしたことは、分かりません。しかし、この会議に、決定打を打った二人の発言が、残されています。それが、使徒ペトロとヤコブの発言です。
 さて、使徒ペトロは、ここで、何を語ったのでしょうか。彼は、自分の実体験に基づいて、異邦人が、異邦人のままに、救われた。その事実を語りました。恐らく、使徒言行録10章に出てくる、コルネリウスの救いを意識していただろうと思います。
 神様に導かれるように、コルネリウスと出会ったこと。そして、その彼らにも聖霊が降ったこと。彼らもまた、イエスを救い主と告白し、主を賛美したこと。その経験に基づいて、異邦人もまた、信仰によって救われている。その事実を、ここで訴えたわけであります。
 しかし、ペトロが、ここで、語りたかったことは、それだけでは、なかっただろうと思うのです。ペトロは、次のようにも語っています。10節の御言葉です。「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」。
 私達が、忘れてはいけないことは、このペトロもまた、「割礼」を受けているということです。彼も又、「ユダヤ人の印」を持つ者であり、それ故に、「ユダヤ人」であります。
 しかし、ペトロは、誰よりも、その割礼が、自分の救いに、直結していない。そのことを、身に染みて感じていたのではないでしょうか。それが、単なる、負いきれない軛でしかなかった。そのことを、ペトロ自身が、よく分かっていたのではないかと思うのであります。
 自分は、確かに、「割礼」を受けている。自分は、確かに「ユダヤ人」であり、「神の民」に他ならない。しかし、その自分が、神の御子イエス・キリストを、裏切ってしまった。神の民とされているはずの、この私が、真の救い主を裏切ってしまった。割礼を受けているからこそ、この罪の重さは、誰よりも重く感じられたのかもしれません。
 しかし、復活の主は、その私を赦してくださった。いや、そもそも、この私のために、十字架に架かってくださった。そして、それによって、この私を赦してくださった。愛し抜いてくださった。割礼を受けていても、「罪」から逃れることはできなかったのです。神の民としての「しるし」を得ていても、罪から逃げることはできなかったのです。しかし、キリストの憐れみによって、自分は救われたのであります。
 このように、ペトロは、自身の実体験に基づきながら、神様の救いは、律法や割礼によって得られるものではなく、ただ、一方的な、キリストの恵みによって与えられる。そのことを、ここで語りだしたのであります。
 その後、パウロとバルナバの報告をはさみ、ヤコブが語り始めました。因みに、このヤコブは、使徒ヤコブではありません。恐らく、主イエスの弟のヤコブで、この時、エルサレム教会の中心人物の一人でありました。
 さて、このヤコブは、何を語りだしたのでしょうか。それは、先ほどのペトロの言葉、そして、パウロとバルナバの報告を受けて、その事柄を、聖書に基づいて、語り直すように、語り始めたのであります。
つまり、ペトロの言葉も、パウロやバルナバの言葉も、単なる個人的な経験によるものではない。それらはすべて、聖書によって示されていること。神様が約束して下さったことなのだ、ということ。そのことを、ここで語り始めたのであります。
 彼が、ここで引用した聖句は、アモス書9章11節以下の御言葉です。そこには、「主なる神の救い」が、「わたしの名で呼ばれる異邦人」にも与えられるのだということ。そのことが語られています。
このようにして、ヤコブは、使徒ペトロやパウロたちが、今、ここで、語った、異邦人の救い。その一つ一つの出来事が、この旧約聖書の預言の成就だと語ったのであります。
 この一人ひとりの発言が、教会会議の決定打となりました。そして、異邦人もまた、異邦人のままで、信仰によって、恵みによって、神様の救いに入ることができる。そのことが、教会の、あるいはキリスト教の一致した教理として、確立されていったのであります。そして、何よりも、この決定こそが、この後の世界宣教の扉を、更に、ダイナミックな仕方で、広げることになるのであります。何よりも、この教会の大切な協議が、今の私達の救いにも、深く関わっていることを、改めて、心に留めていくものでありたいと思うのです。
 神様の救いは、決して、条件を必要とするものではありません。教会には、「洗礼」がありますが、「洗礼」そのものに、救いの効力があるわけではありません。それは、私達が、キリストの恵みによって、既に、救われている。そのことの「しるし」であって、このしるしが、私達を救うわけではないのです。
 私達の行いや成績による救いではなく、ただ一方的なキリストの憐れみと恵みによってのみ、私達は、神様の民とされ、神様の御国を約束されたものとして生きることができるのです。その幸いに、改めて、思いを馳せつつ、真の悔い改めをもって、新たに歩み出すものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:43| 日記