2022年08月02日

2022年8月7日 主日礼拝説教「心を開かれる主」須賀工牧師

聖書:使徒言行録16章6節〜15節、列王記下6章15節〜17節
説教:「心を開かれる主」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録16章6節から15節の御言葉です。改めて、6節から8節の御言葉をお読みします。「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った」。
 ここで、言われていることは、何でしょうか。それは、一言で言えば、パウロの伝道旅行が、パウロの思い通りには、いかなかった、ということです。それは、言い方を変えるならば、あくまでも、伝道の主体は、パウロではないということです。それでは、誰が、伝道をするのでしょうか。伝道する主体は、神様御自身に他ならない。それが、ここで、まず、示されていることなのです。
 私達の救いは、人間の計画によって、得られたものではないのです。一人一人に、神様御自身が、働きかけてくださった、神様が、あなたを選んでくださった。その結果なのであります。まずは、その幸いを、ここで、共に味わいたいと思うのであります。
 さて、パウロは、計画を変更して、フリギア・ガラテヤ地方を通りました。恐らく、ここで、「ガラテヤの信徒への手紙」が、書き送られた教会。そのような教会が、誕生したのではないかと、考えられています。
さて、ガラテヤの信徒への手紙4章13節から14節には、次のように、書かれています。「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」。
 ここからも分かりますように、この旅行中に、パウロは、病気になったようです。それによって、計画を変更しなければいけなくなった。病気によって、進路が変更されてしまった。ただ、それ故に、ガラテヤで伝道することができたわけです。
 そして、それを、後から振り返って、実は、あの苦しみは、ここで「聖霊によって禁じられた」「イエス・キリストによって禁じられた」。その結果だったのだ、と。そのように、パウロ自身が、悟ったのだ、ということも分かるのです。
 二回目の伝道旅行は、悲しい別れから始まりました。しかし、その後、テモテとの新しい出会いが、与えられたわけです。頼もしいパートナーが与えられて、いよいよ、改めて伝道が、開始できる。
 しかし、その第一歩が、病気によって、妨げられてしまったわけであります。これは、使徒パウロにとっては、深い痛みであったと思うのです。自分の思い通りにいかない。そのことも辛かったでありましょう。自分は、この働きに相応しくないのではないか。そのように、自らに与えられた使命感に対する挫折。そのようなものもあったかもしれません。この挫折が、第二回伝道旅行の始まりだったわけです。
それでは、なぜ、彼は、この深い挫折を、絶望とせず、聖霊による導き、キリストによる導きだと、最後には、信じることができたのでしょうか。なぜ、彼は、再度、立ち上がることができたのでしょうか。
 今朝の御言葉の9節から10節の御言葉をお読みします。「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」。
 パウロは、ここで、一つの幻を見ました。そして、それ故に、自分の考えと、神様の御心が違う。そのことに気づかされたわけです。神様は、神様の御心を貫かれる。そのために、パウロの歩みを妨げたのだ、ということ。そのことを、パウロ自身が、悟ることができたわけです。それが、ここで示されていることなのであります。
 繰り返しになりますが、私達の救いは、人間の計画によるものではないのです。神様が生きて働かれた。その結果なのであります。あなたが、救われ(た)ることは、神様の御心であり、御計画だったのであります。そこに、人間の知恵や計画は、一つもないのであります。
 それだけではありません。神様は、福音の届かないような異邦人。彼らの苦しみもまた、そこで知っていてくださる。そして、彼らを救うことを、その御心と御計画の中に入れて下さる。
 それだけではありません。人間の計画を打ち砕いてでも、断固として、その計画を貫いてくださるのであります。その深い憐れみは、今、私達の内にも、届けられているのであります。そのことの幸いが、ここで、改めて、よく表されていると言えるのです。
 因みに、ここから、使徒言行録の主語は、「わたしたち」となります。つまり、ここから、著者ルカ自身が、パウロの伝道旅行に同行することになるようです。
 一説によれば、この「マケドニア人」が、ルカだったのではないか、とも言われています。いずれにせよ、救いの届かないような闇の世界であったとしても、神様は、そこに生きる一人の苦しみを知り、その救いを届けるために、断固として、計画を貫かれる。そのような、お方なのであります。
 さて、神様の深い御心によって、パウロが、伝道に向かった先。それは、「フィリピ」でありました。11節から15節の御言葉をお読みします。「わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。 そして、この町に数日間滞在した。安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って集まっていた婦人たちに話をした。ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だと思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊りください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた」。
 フィリピに到着したパウロは、「祈りの場所」がある「川岸」に向かいました。恐らく、このフィリピには、ユダヤ人の会堂はなかったのかもしれません。ユダヤ人は、清めの儀式をするために、安息日には川岸にいることが多かったようです。そのユダヤ人に向かって、伝道する。福音を伝える。そのために、パウロは、川岸に足を向けたようです。
 さて、そこで、一つの出会いが与えられました。それが「リディア」という婦人です。この人は、「紫布を商う人」であると言われています。当時、「紫布」は、とても高級品でありましたから、恐らく、このリディアもまた、裕福な人であったと考えられます。少し前の言葉で言うならば、キャリア・ウーマンということでしょうか。
 因みに、この「神をあがめる」という言葉は、異教の言葉です。それ故に、恐らく、この人は、異邦人から改宗したユダヤ人であったと思います。
 要するに、異教の文化で育ち、仕事一筋で生計を立て、そして、ユダヤ人として生きていた人。普通にしていたら、まず、キリストと出会うことはなかったかもしれない。そのように言えるかもしれません。
 しかし、その彼女が、パウロと出会い、そのことを通して、キリストと出会い、心の目が開かれて救われていった。そして、フィリピの伝道は、いや、フィリピの教会は、彼女から始まることになったのです。
ここで、重要なことは、神様が「心を開かれた」ということであります。パウロの話が良かったとか、彼女が一生懸命に話を聞いていたとか、それらが、救いの原点ではないのです。 
 神様が、彼女の心を開かれた。だから、真剣に聴くことができたわけです。これは、考えてみたら、すごいことです。聞くことすらも、実は、私達の力にはよらないのです。神様が、私達の心を開いてくださる。だから、真剣に聴くことができるのであります。
 これは、私達においても、同じことです。神様が、私達の心を開き、心の中に御言葉を響かせ、心を揺さぶり、今まで見ることのなかった、キリストの救いを知る者としてくださった。聞くことすらも、私達の努力ではなく、神様の働きなのであります。
 今こうして、御言葉に耳を傾けている。実は、そのところから、私達は、既に、神様の御手の中に入れられているのであります。
 パウロの伝道は、正に、悲しみと挫折から始まりました。しかし、それ故に、新しい出会いを経験しました。そして、神様が、変わることなく、御心を成し遂げるために、生きて働かれる。そのことも知ることができました。
 パウロもまた、決して完璧な人間ではありません。失敗も挫折もしたわけです。欠けもあったわけです。
しかし、伝道の主体は、パウロではなく、神様御自身であることを、私達は、そこで知ることができるのです。神様が、教会を立て、神様が、私達の心を開き、神様が私達の内に、語りかけ、神様が、私達を罪と死から救い出す。その福音の力を与えてくださる。私達は、そのようにして、今、神様の深いみ旨とお働きによって、永遠の命を得るものとされているのであります。普通であれば、決して出会うことのないキリストと、今、出会い、救いに生かされている。それは、私達人間の計画によるものではない。ただ、ひたすらに、神様があなたを選んだ。招いた。その深い、み旨によるものなのだということ。そのことを、改めて、心に留めつつ、新しい一週間を共に歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:44| 日記